カンフーパンダと荘子。荘子です。 今日は『カンフーパンダ』(Kung Fu Panda 功夫熊猫)と荘子です。2008年に公開されて、アニメーション作品としてアジアでもかなりの好成績をあげた作品なんですが、これ、『ドラゴンキングダム』や『ベスト・キッド』のリメイク版と同じく、荘子です。 参照:Kung Fu panda Intro http://www.youtube.com/watch?v=WZzcEJQ8Hnw ・・・動物がペラペラペラペラしゃべって、安定と信頼の夢オチ(笑)。イントロだけでも4つも荘子を入れるところに、ドリームワークスの「世界最初の夢オチ」への思い入れが感じられます。老子と比較しても、圧倒的に荘子の言葉からの引用とそのアレンジが多いです。「柔よく剛を制す」も荘子流の解釈。主人公のパンダは、陰陽の象徴と、布袋さんのアバターみたいなものかと思われます。 参照:『茶の本』と功夫。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5024 武道と田舎荘子。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5013 この作品の中に出てくる亀仙人・ウーグウェイ導師(Master Oogway 烏亀老師)について。 「蝶の羽ばたく音を聴く」この仙人は、こう言います。 "Your mind is like this water my friend, when it gets agitated it becomes difficult to see. But if you allow it to settle the answer becomes clear."(友よ、そなたの心はまるでこの水のようだな、波立っていると何も見えない。しかし、その事象を受け入れ、落ち着きを取り戻せば、答えは自ずから見えてくる。) 参照:Master Oogway's wisdom http://www.youtube.com/watch?v=lElihYvhSqA&NR=1&feature=endscreen 『人莫鑑於流水、而鑑於止水、唯止能止衆止。』(『荘子』 徳充符 第五) →「流れている水は人の姿を映す鏡にはならない。静かな水面こそ万物の姿を映す鏡になる。静かな心であるからこそ、王駘は他人の心を映し出し、人々の足を止めることができるのだ。」 ・・・日本の武道、特に剣道ではよく使われる「明鏡止水」と、同じ徳充符篇の「虚往実帰(心を無にして、実を得て帰る)」という荘子の教えです。 で、このシーン。 "Quit. Don't quit. Noodles. Don't noodles. You are too concerned with what was and what will be. "(修行を辞める、辞めない。ラーメン屋を継ぐ、継がない。そなたは、過去と未来の事柄に囚われてばかりだな。) 参照:Kung Fu Panda a Gift http://www.youtube.com/watch?v=KhYMwUwR7ZM&feature=related Yoda:"No! Try not. Do. Or do not. There is no try." (やってみるのではない。やるか、やらないか、あるのはそれだけじゃ。) ・・・ここは、マスターヨーダと同じですね。日本で言うと上杉鷹山の「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」なんですが、ここに、「有為」と「無為」の思考があります。 参照:ジョージ・ルーカスと東洋思想。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5097 ま、このウーグウェイ導師も、ユング心理学でいうところの老賢者(Old wise man)です。 原典が同じだから、同じ台詞が出てしまう。 "There's a saying. Yesterday is history, tomorrow is a mystery, but today is a gift. That is why it is called the "present"."(こういう言葉がある。昨日のことは"history"、明日のことは"mystery"、今日という日は「贈り物」。だから言うのだよ、「今・この時」を"present".と。) ・・・これは巧い!本来は、フランクリン・ルーズベルトの奥さん、エレノアさんの言葉らしいんですが、この"present"を強調することで『日々是好日』に妙を添えています。こうすると禅語とは気づかない。いわゆる「即今」とか「ヒア・ナウ」ってヤツです。(ちなみに前半の会話は、『平常心是道』です。) 参照:禅語「日々是好日」: 臨済・黄檗 禅の公式サイト http://www.rinnou.net/cont_04/zengo/060601.html 『體盡無窮、而遊無朕、盡其所受於天、而無見得、亦而虚已。至人之用心若鏡、不將不迎、應而不藏、故能勝物而不傷。」(「荘子」応帝王第七) →無限の世界に飛び出して、形なき世界を遊ぶ。天により受けたままの恩恵をことごとく受け入れ、それ以外を求めない。ひたすらに虚心になるのだ。至人の心は曇りなき鏡のようであり、過去の事象に囚われず、未来を思い悩むこともない。全ての変化に応じて、引きとめることもない。故に、曇りなき鏡を、何者も傷つけることはできない。 『荘子』でいうと「将(おく)らず、迎えず、応じて、蔵せず」です。鏡は「今」をあるがままに映し出します。 参照:Reflection - Japanese http://www.youtube.com/watch?v=5uF8gbpKPcY&feature=related ≪アーティストとして創造的な生き方をしたかったら、あまり後ろを振り返らない方がいい。やってしまったことや、過去の自分を認めて訣別することだ。≫ ≪昨日のことをあれこれ悩むより、明日を生み出そう。≫(スティーブ・ジョブズ) 参照:スティーブ・ジョブズと禅と荘子 その3。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5100 " My time has come. "(私の番が来た) 参照:Shifu & Oogway http://www.youtube.com/watch?v=DLpUev1FvS0 このウーグウェイ導師の達観した最期のあり方は荘子の死生観に一致します。 荘子曰「不然。是其始死也、我獨何能無慨然。察其始而本無生、非徒無生也,而本無形、非徒無形也,而本無気。雑乎芒勿之間、変而有気、気変而有形、形変而有生、今又変而之死、是相與為春秋冬夏四時行也。人且偃然寝於巨室、而我激激然随而哭之、自以為不通乎命、故止也。」(『荘子』至楽第十八) →荘子曰く「妻が死んだ時には、私だって嘆き悲しまずにいられなかったさ。当たり前じゃないか。だけど、そのうち、こう考えるようになったんだ。人間生まれてくるときは、そもそも命なんてなかった。肉体だってなかった。もちろん、肉体を形作る「気」だってなかったんだ。もともとぼんやりしたわけの分からないものから混ざり合っていた状態から、陰陽の気が生じて肉体というのが生まれて、肉体が変じて生命あると考えたのさ。今、妻の体は再び変じて死んでいくんだよ。自然に春夏秋冬の移り変わりがあるのと同じように、妻は、天地という大きな空間に安らかに眠っているのさ。それなのに、自分がいつまでもめそめそ泣いていても、それは、天命を知らないことになりやしないかと思って、泣くのを止めたんだよ。」 荘子将死、弟子欲厚葬之。荘子曰「吾以天地為棺槨、以日月為連璧、星辰為珠機、萬物為斉送。吾葬具豈不備邪、何以加此。」(『荘子』 列禦寇三十二) → 荘子が臨終を迎える間際、弟子たちは彼を手厚く葬ろうと考えていた。しかし、荘子曰く。「天地を棺とし、太陽と月を一対の璧として、天空の星々を飾りにすれば葬式などはいらない。死にゆく私への贈物はこの世界の万物だ。何もしなくても私の葬儀の準備は終わっている。何が他に要るというのか?」 『論語』の先進篇に、極貧の中で必死に学問に励んだ弟子の顔回(顔淵)の早すぎる死に際して「この顔回のために泣かずして、私は誰のために泣くのだ!」と取り乱して泣いた孔子の姿が描かれています。上記の『荘子』の文章はその対比としての荘子像ではあります。しかし、『荘子』のこの箇所を独立して読むと、宗教家の出る幕のない、社会的な死以前の、あるがままの人の死のすがたとして見えます。突き放したとも言える死への姿勢というのは、孔子の思想のアンチテーゼというよりは、葬儀という発明以前の、自然な死のあり方だったのではないでしょうかね。 "Death is a natural part of life. Rejoice for those around you who transform into the Force. Mourn them,do not. Miss them,do not. Attachment leads to jealousy. The shadow of greed that is." (死は生きるという自然の働きの一部なのじゃ。フォースに姿を変える者を喜んで送りせ。悲しんではならん。寂しがってもならん。深い執着は嫉妬を生み、欲望の影が忍び寄ってくるからの。) "Train yourself to let go・・・of everything you fear to lose." (自らを鍛え、死による喪失の恐怖を乗り越えよ、その恐れを解き放て。) 参照:yoda's wisdom https://www.youtube.com/watch?v=B2be8bdAIG8 参照:ユングと鈴木大拙。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5095 ・・・おそらく、下の詩が日本で流通し始めたのは『ユング心理学と仏教』で紹介された際だと思われますが、荘子の妻の死に際しての言葉によく似ています。 参照:千の風になって http://www.youtube.com/watch?v=jcRBtTtP9f8 今日はこの辺で。 |