双葉山と木鶏。荘子です。 平成の世になっても破られることのない69連勝の記録を持つ、不世出の横綱・双葉山の生誕から100年。ということで、十一月場所に向けて双葉山の写真がいろんなところに飾られております。 参照:Wikipedia 双葉山定次 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8C%E8%91%89%E5%B1%B1%E5%AE%9A%E6%AC%A1 先日、双葉山ゆかりの「妙音の滝」を探しに行ってきました。 博多から自転車で二時間半くらい。双葉山の著作によると「福岡県筑紫郡安徳村から二里半ばかり」、現在の地名では筑紫郡那珂川町の上梶原というところにあります。不滅の記録69連勝を成し遂げた翌年、昭和15年に双葉山はスランプに陥り引退宣言までしています。しかし、その後思いとどまった彼は、五週間ほどこの上梶原に籠もり、妙音の滝に打たれて精神を見つめ直し、再び土俵に戻ったという逸話があります。それが気になって行ってみたんです。近くに静かで清らかな小川はあるんですが、肝心の滝は九州新幹線の開通に伴い、途中の水脈が断たれたせいか、現在はもはや滝と呼べるほどの水量もありませんでした。数年前から事実上の閉鎖の状態のようです。 今日は、双葉山の「木鶏(もっけい)」について。 この故事は『列子』の黄帝篇、『荘子』では達生篇に収められています。 『紀渻子為王養鬥雞。十日而問「雞已乎?」曰「未也。方虛憍而恃氣。」十日又問。曰「未也。猶應嚮景。」十日又問。曰「未也。猶疾視而盛氣。」十日又問。曰「幾矣。雞雖有鳴者、已無變矣、望之似木雞矣、其徳全矣、異雞無敢應者、反走矣。」』(『荘子』達生 第十九) →紀省子(きしょうし)は、王のために闘鶏の鶏を養うことになった。 十日目に王が「もう鶏は試合に出せそうか?」と尋ねると、 紀省子は、「まだです。実も伴わずに威張りちらしているだけです。」 その、十日後に王が「もう鶏は試合に出せそうか?」と尋ねると、 「まだです。他の鶏の声を聞くだけで相手に飛びかかるようでは。」 また十日後に、王が「もう鶏は試合に出せそうか?」と尋ねると、 「いや、まだです。闘志が先走って相手を睨む癖が抜けません。」 さらに十日後に、王が「もう鶏は試合に出せそうか?」と尋ねると、 ようやく、 「そろそろでしょう。他の鶏の鳴き声にも動じないし、まるで木彫りの人形のようになっています。ここまでくれば、相手の鶏は、こいつにはかなわないと、戦う前に逃げてしまいますよ。」 「木鶏」は、『荘子』における「真人」の達した境地を闘鶏の鶏に喩えている箇所です。 『且有真人、而後有真知。何謂真人?古之真人、不逆寡、不雄成、不謨士。若然者、過而弗悔、當而不自得也。若然者、登高不慄、入水不濡、入火不熱。是知之能登假於道也若此。』(『荘子』大宗師 第六) →真人ありて、しかる後に真知あり。どのような人を真人というのだろうか?古の真人は我が身の至らぬところに逆らわず、成功を鼻にかけたり、行いにはからいをもたなかった。このような者は、失敗をしても悔やまず、成功をしてもそれを誇らない。高所にあっても物怖じせず、水に入っても濡れず、火に入っても熱さを感じない。知が至り道に到達したものはこのようなものだ。 ・・・「心頭滅却すれば火もまた涼し」ということですよ。 「眞人の息は踵を以てし、衆人の息は喉を以てす。」「その嗜欲深き者は、其の天機浅し。」など続きますが、「心斎」「坐忘」など修練を経て、眞人ともなると、外の現象に左右されない境地に至るということです。 というわけで、今回は相撲道における双葉山の「木鶏」です。 以下の話は陽明学者・安岡正篤(やすおかまさひろ)さんの著作で紹介されたり、双葉山の代名詞としてよく引き合いに出されていますが、双葉山本人の分というのは見当たらないので、 今回は『相撲求道録(現在は『横綱の品格』として復刻)』より引用致します。 ≪木鶏の話 わたくしが安岡正篤先生にお近づきになりましたのは、神戸の友人中谷清一氏の引き合わせによるものでした。 中谷清一氏のお父さんは証券業者で、神戸の商工会議所の会頭までされた、あちらではかなり著名な実業家でありましたが、かねて父子ともに安岡先生の熱心な傾倒者で、そんなところから先生と私との御縁も結ばれたわけです。 東京で先生にはじめてお目にかかったのは、たしか私の大関時代であったかと思います。先生にはそれからしばらくお会いする機会があり、そのたびごとにいろいろなお話を承ったわけですが、もともと学校らしい学校にもいっていないわたくしとしては、先生のようなすぐれた方に親炙する機会に恵まれましたことは、このうえもなくありがたいことで、わたしくはそういうさいには、含蓄のふかい先生のお話に耳を傾けるよう心がけてきました。御自身がそれを意識していられたか、どうかはわかりませんが、先生もわたくしのために、なにくれとなく、よいお話をしてくだされ、酒席のそれでも、なんとなく体にしみいるような感じでありました。先生のお話によって、人間として、力士としての心構えのうえに影響をこうむったことはすくなくなく、こころの悩みもおのずから開けてゆく思いを禁じえなかったのです。 先生にうかがったお話の中に、中国の『荘子』や『列子』などいう古典にでてくる寓話「木鶏の話」というのがあって、それは修行中のわたしの魂につよく印象づけられたものですが、承ったその話というのは、だいたい次のような物語なのです。 「そのむかし、闘鶏飼いの名人に紀渻子という男があったが、あるとき、さる王に頼まれてその鶏を飼うことになった。十日ほどして王が、 “もう使えるか” ときくと、彼は、 “空威張りの最中で駄目です” という。さらに十日もたって督促すると、彼は、 “まだ駄目です、敵の声や姿に昂奮します” と答える。それからまた十日すぎて、三たびめの催促をうけたが、彼は、 “まだまだ駄目です。敵をみると何を此奴がと見下すところがあります” といって、容易に頭をたてに振らない。それからさらに十日たって彼はようやくつぎのように告げて、王の鶏が闘鶏として完成の域に達したことを肯定したというのである。 “どうにかよろしい。いかなる敵にも無心です。ちょっとみると、木鶏(木で作った鶏)のようです。徳が充実しました。まさに天下無敵です。” 」 これはかねて勝負の世界に生きるわたくしにとっては実に得がたい教訓でありました。わたくしも心ひそかに、この物語にある「木鶏」のようにありたい――その境地にいくらかでも近づきたいと心がけましたが、それはわたしどもにとって、実に容易なからぬことで、ついに「木鶏」の域にいたることができず、まことにお恥ずかしいかぎりです。 安岡正篤先生から、わたくしの現役時代に、次のような御自作の漢詩二つを、相前後して頂戴したことがあります。過褒あたらず、衷心より恐縮にたえなかった次第ですが、これというのも偏に、わたくしの志を鞭撻しようとの思召しから出ずるもので、今日なお感激の念いを禁じえないところです。 万千鑽仰独深沈 万千の鑽仰ひとり深沈 柳緑花紅未惹心 柳緑花紅いまだ心を惹かず 胸裏更無存他意 胸裏さらに他意の存するなし 一腔熱血報知音 一腔の熱血知音に報ず 百戦勝来猶未奇 百戦勝ちて来つてなほ未だ奇とせず 如今喜得木雞姿 如今喜び得たり木雞の姿 誰知千喚万呼裡 誰か知らん千喚万呼の裡 独想悠々濯足時 独り想ふ悠々足を濯ふの時 わたしが昭和十四年の一月場所で安芸ノ海に敗れましたとき、酒井忠正氏と一夕をともにする機会にめぐまれ、北海道巡業中にとった十六ミリ映画をお目にかけたりなどして、静かなひとときを過ごすことができました。氏はその夜のわたくしを、「明鏡止水、淡々たる態度をみせた...」(酒井忠正氏著『相撲随筆』)云々と形容しておられますけれども、当のわたしにしてみれば、なかなかもってそれどころではありません。「木鶏」たらんと努力してきたことは事実だとしても、現実には容易に「木鶏」たりえない自分であることを、自証せざるを得なかったのです。かねてわたしの友人であり、また安岡先生の門下である神戸の中谷清一氏や四国の竹葉秀雄氏にあてて、 「イマダ モッケイタリエズ フタバ」 と打電しましたのは、当時のわたくしの偽りない心情の告白でありました。わたくしのこの電報はただちに中谷氏によって取次がれたものとみえて、外遊途上にあらわれた安岡先生のお手もとにもとどいた由、船のボーイは電文の意味がよく呑みこめないので、 「誤りがあるのではないだろうか」 と訝りながら、先生にお届けしたところ、先生は一読して、 「いや、これでよい」 といって肯かれたということを、後になって伝えきいたような次第です。(以上 双葉山定次著『相撲求道録』「交わりの世界」より≫ ・・・前回、江戸時代に書かれた『田舎荘子』での「木鶏」のアレンジ「木猫(木にて作りたる猫のごとし)」を引用しましたが、剣道と相撲道の違いはあれど、道は一つということです。 ≪「我隣郷に猫あり。終日眠り居て、気勢なし。木にて作りたる猫のごとし。人其鼠をとりたるを見ず。然共彼猫の至る所、近辺に鼠なし。所をかへても然り。我往て其故を問。彼猫答へず。四度問へども、四度答へず。答へざるにはあらず、答へる所をしらざる也。是を以知ぬ、知るものはいはず、いふものはしらざることを。彼猫は、をのれを忘れて、物を忘れて、無物に帰す。神武にして、不殺といふものなり。我また彼に及ばざる事遠し。」≫ 参照:『田舎荘子』より「猫の妙術」。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5135/ 今日はこの辺で。 ジャンル別一覧
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