というわけで、2週間前の続きを。
麻生さんが総理大臣になるとすると、福岡県からの総理大臣としては、約70年ぶり、2人目ということになる。その、前の総理大臣、広田弘毅さんに会いに行ったのです。
前回までは、こちら↓
A級戦犯・広田弘毅に会いに行った(仮)。
一高を出て、帝大に入った広田さんは、ここですでに外交デビューをしている。というのも、学生時代に故郷の先輩にあたる山座円次郎さんの命を受けて、遼東半島の視察に行っていて、そこでの報告書が高く評価されたとのこと。何せ日露戦争の前年のことなので、広田さんの報告書は貴重だったんですな。しかし、広田さんは外交官試験に一度落ちている。理由は、英語が苦手だったからなんだそうで(笑)。一浪して、見事首席で外交官試験に合格。このときの外交論についての論文の評価が素晴らしかった。広田さんは、裕福とはいえない石屋の息子さんなので、相当苦学を積んで結果を出しています。
その後も山座元次郎さんの下で外交官補として北京へ、三等書記官としてイギリスへ、さらにワシントン、そして、山本権兵衛内閣の時には欧州局長に。生まれは名門とは言えないものの、学歴と実績で認められた方だった。
小村寿太郎が外務大臣のとき、寺尾亨さんが、小村に「あなたの後継者は誰だろうか」と質問したところ、「第二次は山座、第三次は少し落ちるが廣田だ」と答えたそうな。山座さんにせよ、広田さんにせよ、福岡出身の方。この言葉に、
栗野慎一郎 → 山座元次郎 → 広田弘毅と、外務省で活躍した福岡県出身者の系譜があるわけです。小村寿太郎は、金子賢太郎さんや、栗野慎一郎さんとはアメリカ留学時からの友人であるので、福岡県出身者にご縁があるわけですな。幣原喜重郎さんの考えにも距離をとっていたことも大事。
参照:
Wikipedia 栗野慎一郎
Wikipedia 山座円次郎
ちみに1915年の対華二十一ヶ条要求の際、広田さんは条約の作成に携わったものの、最後通牒の形で出すことには反対している。これは吉田茂も同じ。大陸における「反日」意識を芽生えさせるきっかけとなり、多くの留学生を失望させた二十一ヶ条の要求について、広田さんが反対していたことは明記しておかんと。
それから、ソ連大使を経て、満州事変後の斎藤実内閣で外務大臣に就任。基本的には協和外交を目指し、日中双方の公使館が大使館に昇格したのも広田さんのおかげなんだけども、陸軍の圧力は強烈で、そのなかで外交的な妥協点を見出し、日中の提携を模索しするのは困難だった。例えば、広田さんの手による「対華三原則」の評価は、彼の立場をどこに置くかの違いから、論者によってまるで違う結論が引き出されてしまう。
1936(昭和11)年2月に、青年将校がとち狂ってクーデターを起こす。国体擁護、昭和維新の名の下に、首相官邸を初め、陸軍省、警視庁を襲撃し、政府の要人である高橋是清蔵相・斉藤実内大臣・渡辺錠太郎教育総監などを殺害した。
言わずと知れた二・二六事件。
岡田内閣は、この一大事件の責任を取って総辞職。次の内閣には軍部にも、国民にも受けの良い近衛文麿が予定されていたが・・近衛さんは、病気を理由にこれを拒んだ。そこで、次に選ばれたのが広田さん。
二・二六事件の直後、広田さんは総理大臣に就任した。
まだ、現段階では「福岡が生んだ唯一の総理大臣」は、広田弘毅さんのみであります。ちなみに、この左の写真の東京朝日新聞の記事には(読みにくいな)「外務大臣」の欄に吉田茂とあるけども、自由主義者で新英米派と軍部にレッテルを貼られていた吉田さんは外務大臣にはなれず、広田さんが外相を兼務している。
広田さんの銅像は、大濠公園の南東側で福岡市美術館の敷地内、というか、NHK福岡の向かいにある。護国神社との関連からいっても、ここがふさわしいという判断でしょう。
今、麻生さんが総理大臣に就任することと比べると、「血統の良さ」や「ポピュリズム的な傾向」を勘案しても、同郷の先達である広田弘毅さんというよりは、国民世論の中に待望論もあった近衛文麿さんに近いイメージがある。広田さんの場合、宰相になったのも近衛さんが二・二六事件直後ということを嫌ったことが原因だし、A級戦犯として、文官であるにも関わらず処刑されたのも、近衛さんが先に服毒自殺した後なので、亡くなるまで近衛さんの尻拭いをなさったのではないか、というのが、正直な感想。
広田さんのお墓と、玄洋社についてメモしておきたい。
ま、その3はいずれ。
今日はこの辺で。