カテゴリ:poincare ~ポアンカレ ~
◆小説のあらすじ・登場人物◆は、今回の記事の下のコメント欄をご覧ください ![]() 最初から、または途中の回からの続きを読まれる方は、◆ 一覧 ◆からどうぞ。 ※ 申し訳ありませんが、一覧は携帯では表示できません。 ○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○ 表通りから路地を少し入ったところ、週に二回ほどライブが行われるジャズクラブ。 紗英の忘れ物を渡したい、そう言って僕は坂下を呼び出した。 まだ時間も早く、この日はステージの予定もなかったため、客はカウンターに数人と、そこから離れた壁際のテーブル席に坂下が座っているだけだった。 「お先に」 薄暗い照明のせいか、既に飲み始めていた坂下の雰囲気がいつになく重かった。 「くるみちゃんとは、あれからどうしたんだ?」 僕が席に着くなり坂下は、こちらを見ることもなくそう言った。 「くるみとは別れたよ」 「そうか」 「くるみには僕の気持ちが分かってると勝手に思ってた。理解してくれているとばかり…。僕と紗英が昔付き合っていたからって、もう十年も前の話だし、今は全く関係ないのにな」 僕を信じきることができなかったくるみ。逆にくるみを信じるあまり、くるみの本心まで思いやらなかった僕。いつもすれ違いに気付くときには、もう取り返しがつかない。 「くるみちゃん、色々我慢してたんだろうな」 坂下がぽつりと呟いた声は、店に流れている音楽に静かに溶けていった。 「だけどもう終わった話だ。別れたいって言いだしたのはくるみで、僕はそれを受け入れたんだ」 「それがくるみちゃんの本音なのか? その場の流れで別れたいって言ってしまったんじゃないのか?」 「もういいんだ。僕のことで傷付いてしまったくるみを、これ以上、無理に繋ぎ止めたくない。多分、今のくるみは僕といても、僕を責めるか、自分を責めるかで、どっちにしろ苦しいだけだ。それならもう、いっそ自由にしてやりたい」 スピーカーから聴こえてくる曲調が変わった。カウンターに座っている男に、店員らしき人が古いレコードを見せている。男はカウンター越しにそれを見て、懐かしいと喜んだ。 「それで、紗英の忘れ物って?」 そう言われて、紗英の雑誌の間から見つけた封筒を出した。坂下の病院の名前が入った封筒。その中から一枚の紙を取り出して、テーブルに広げた。 「入院同意書」と印刷された用紙。患者氏名欄に「月野紗英」、入院開始日は紗英が韓国に発つと言っていた日付が書き込まれていた。 「これは何だ? どういうことなんだ?」 僕の問いに、坂下は困惑したと言うより、ひどく疲れた様子で言った。 「紗英にはもう関わるな」 「僕がくるみと別れて、今度は紗英を取り戻そうとするとでも?」 ようやく坂下は顔を上げて、僕の目を見た。 「そんなつもりはないって、お前の顔に書いてあるよ。だけど、くるみちゃんを追いかけないお前が、どうして紗英のことは知りたがるんだ」 「それは…」 どうしてなのか自分でもよく分からない。今さら紗英のことを知って、どうなるわけでもないのに。 「うまく言えないが、時々紗英が見せた悲しげな目が気になってるんだ。出て行った時も本気で怒っているようには見えなかった。くるみを怒らせながら、一瞬あの悲しい目をしたんだ。紗英はくるみの怒りを、僕から自分に向けさせようとしていた」 「紗英の芝居、見抜いてたのか? お前、鈍い奴なのか、鋭い奴なのか、分からないな」 そう言うと坂下は、ためらうように言葉を続けた。 「お前に知られることを、紗英は望んでいない」 坂下は入院同意書を手にとって、しげしげと眺めた。 「確かにバッグに入れたのにって、どこかで失くしたって言ってた。あいつも間抜けだな。鈍いんだか鋭いんだか、しっかりしてるのか抜けてるのか、お前らそういうところよく似てるよ」 苦悩の入り混じった悲しい笑い。坂下のこんな表情を見たのは初めてだった。 店のドアが開き、新たな客が数人入って来た。外は雨が降り出したようで、彼らはコートについた水滴を軽く手で振り払っていた。 坂下が重い口を開く。 「お前には言うなと言われてきたし、俺自身も敢えてお前に伝える必要はないと思っていた。だが紗英だって、本当はお前に何もかも打ち明けて、受け入れて欲しいんじゃないかとも思う。正直、俺にもどうしたらいいのか分からない」 「紗英のこと、薄々見当はついている。この同意書は紗英の持っていた雑誌に挟まっていて、挟まっていたページには癌で余命を宣告された人の手記が載ってた」 「Without、か。それを読んだのか?」 一瞬、驚いた坂下が、僕を見つめ返した。 「いや、見出しをざっと見た程度だが。お前もあの雑誌を知ってるのか? 紗英もあの手記を書いた人たちと同じなんだな? 紗英はあとどのくらい生きられるんだ?」 坂下は殊の外、あっさりと答えた。 「もって一、二ヶ月ってところだ」 覚悟はしていた。だがあとわずか一、二ヶ月。そんなに短いなんて。 「紗英も自分の病気のこと知っているのか?」 「ああ、知ってる。もう手遅れだってこともな」 「それで? それで紗英は僕に会いに来たのか? 最後に僕と一緒にいたくて? でも僕にはくるみがいたし、自分はもう生きられないと分かっているから、身を引いた? 紗英はお前のことが好きなんじゃないのか?」 もう観念した、坂下はそんな顔をしていた。苦悩して疲れ果てた、その末に見せた顔。 「違うんだ、吾朗。俺と紗英は、付き合っているふりをしていただけで、医者と患者、それだけの関係だ。そして紗英は他の誰でもなく、お前に会いたかった。だから会いに行った。会ってしまったら、今度は傍にいたくなった。だがそれは昔の想いが再燃したからとかじゃなくて…」 坂下にいつもの余裕は全くなく、何かに追い詰められているようなその様子に、僕は戸惑いと不安を抱かずにはいられなかった。 「俺はもう時間のない紗英を呪縛のようなものから解放してやりたい。だからお前に聞いて欲しいんだ。だがそれを聞いてお前が平気でいられるかどうかわからない。それでも聞いて、受け入れてくれたらと思うんだ」 「お前、何が言いたいんだ? まだ他に何か隠していることが?」 聞いてはいけないこと。それは十年前の紗英を、奈落の底に突き落とした事実。 「吾朗、お前と紗英は…」 坂下と紗英だけが、この十年間胸にしまい続けてきたことを、僕は坂下の胸からえぐり出した。 「母親の違う、兄と妹なんだ」(つづく) ○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○.。.:・°○ ![]() ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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