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カテゴリ:音楽
モーリス・ラベルのボレロ、曲は昔から馴染みがあるものの、考えてみると、ついぞじっくり耳を傾けた事が無かったと気付くのでした。
先日CDショップで見つけて買っておいたものがあり、床に就くとこのところ習い性にしている音楽鑑賞を、昨夜はこの極に決めました。 始めてじっくり聴きました。 驚きの発見がありました、曲の最終段階に至り、エンディングがどのようなものであったかは全く分かりませんでしたが、作曲者の意向と指揮者の気持ちが伝わってきていたので、想像できました。 想像はぴたりとつぼを得ていました。自分の思いと曲が旨く重なって終わりを迎えました。 感慨醒め遣らぬ間に、これも又習い性となっている、音楽鑑賞のあとは、自分のテープを流します。 先刻の圧巻に、太刀打ちできる物やら?いささかの自身もあるにはありますが、聞いて見なければ分かりません。 でも、大丈夫でした、ラベルの力作をカラヤン指揮で録音された作品に、ミヒャエルは劣っていなかったのでした。 気持ちよくなって、何時しか眠りこけていまして、テープのプレーが終了して、音がするので目覚めました。 アハハ!これを以って「自画自讃」と申します。 じがじさんは、「自画自賛」とも書き表します。「自画自讃」ですと、己が描いた絵に見合った言葉や詩を書き入れる(讃をする)事からきていますから、今回の場合自分で褒めるのですから、「自画自賛」となりましょうか。 さて、現代音楽(様式上の分類表現ではない)箱の他人から始まったと言われる、クロード・ドビュッシーですが、流れの特徴とされる前衛的な音楽を指すことが多いようです。 不協和音の多用などによる抽象性の亢進は、それ以前のクラシック音楽の流れから、当然外れた方向であって、ミヒャエルの正統派好みには余りしっくりこないのです。 でも、ドビュッシー辺りはまだ何とかある程度馴染める余地があるのかなあ?と言う感じではあるものの、あまり好んで聴く事はしませんでした。 昨晩、恐る恐るちょっと紐解いてみました。 おやおや、鑑賞の仕方次第じゃないか、いけるねえ!と言うことになりました。と思いつつ最終曲「牧神の午後への前奏曲」になる頃にはすっかり眠り込んでおりました。 音がしないなあ!と気付いてみると、CDプレーは確り終了となっていました。 ため息交じりに、わがふがいなさを嘆きつつ、今一度聴いていたあたりにさかのぼってやり直しです。でも・・・またまた。 今や又聴き直しですねえ、時間に余裕のある今は、それが可能なのがありがたいです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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