田村麻呂 その実像 2
延暦十四年、大伴弟麻呂は凱旋して戦勝を報告、節刀を返還した。田村麻呂はエミシ討伐の功績で従四位下に特進。木工頭(こだくみのかみ)に任じられた。 延暦十五年一月、田村麻呂は陸奥出羽按察使・陸奥守に任じられ、鎮守将軍も兼務した。 延暦十六年、田村麻呂は征夷大将軍に任命され,胆沢から斯波(岩手県紫波郡)の間を平定、以後,胆沢城がエミシ地経営の根拠地となった。この年、安積郡の人で外少初位上の丸子部古佐見、大田部山前が、大伴安積臣という姓を賜った。 延暦十七年、田村麻呂は従四位上に進む。 延暦十八年五月、田村麻呂は近衛権中将になった。 延暦十九年、エミシが常陸や駿河の清見関(静岡県静岡市清水区)に侵入と伝えられるが、多賀城や勿来、白河関が破られたという記録はない。このことから、エミシの舟軍による小規模な侵攻でもあったかと言われている。 延暦二十年、これに対して、田村麻呂は軍勢四万を率いて第三回エミシ征伐軍を指揮し、エミシ軍に壊滅的打撃を与えた。九月二十七日、帰京した田村麻呂はエミシの討伏を報告し、節刀を返還した。従三位に進み、近衛中将になった。 延暦二十一(八〇二)年一月、田村麻呂は陸奥國胆沢城使に任じられ、方八町といわれる胆沢城の造営を開始、多賀城にあったエミシ経営の鎮守府をここに移した。 四月、エミシの首領大墓公阿弖利為(たものきみあてるい)と盤具公母礼(いわぐのきみもれ)は、五〇〇余人を引き連れて降伏してきた。 七月十日、二人は田村麻呂に従って京に入った。田村麻呂の命乞いにもかかわらず公卿たちは二人のエミシの捕虜を「野性獣心、反覆定まりなし」といって反対。八月十三日、阿弖流為らは河内国杜山において斬首の刑に処せられた。処刑された地は、この記述のある日本紀略の写本によって「植山」「椙山」「杜山」の三通りの記述があるが、どの地名も河内国内には存在しない。ただし、「植山」については、枚方市宇山が江戸時代初期に「上山」から改称したものであることから、有力な比定地とされている。 阿弖流為は、斬首、さらし首にされたが、奥州に残ってい た妻子や残党は、大きな穴を掘らされて生きながら埋められ その上に出てこられぬように降伏し奴隷となった者らに踏み つけさせた。つまり根(死)の国へ追いやる為の土をかぶせ、 「ラッセラー、ラッセラー」という掛け声とともに踏んづけ る恰好をする踊りで、これが今の東北三大奇祭の倭武多(ね ぶた)になったという。田村麻呂の山車が賑々しく彩りを添 える。 (青森県史) 延暦二十二年、田村麻呂は造斯波城使に任じられた。しかし斯波城はたびたび水害にあったため、後方にある胆沢城が最重要視されるようになった。 七月十五日、田村麻呂は刑部卿になった。 延暦二十三年、第四次の征夷作戦が計画され田村麻呂は再び征夷大将軍に任命された。このとき田村麻呂は、征夷大将軍・従三位行近衛中将兼造西寺長官・陸奥出羽按察使陸奥守勲二等となり、造西寺長官を兼ねた。 八月七日、和泉国と摂津国に行宮地を定めるため、三島名継とともに遣わされた。 延暦二十四年、田村麻呂は参議に任じられた。 十月十九日、清水寺の地を賜った。 十一月二十三日、田村麻呂は坂本親王の加冠に列席し衣を賜った。 十二月、『天下の徳政』論議がおこなわれ、藤原緒嗣が軍事と造作が民の負担になっていると論じ、桓武天皇がこの意見を認めたため第四次の征夷作戦が中止された。 延暦二十五・大同元(八〇六)年田村麻呂は中納言・中衛大将に任じられた。 十月十二日、田村麻呂は陸奥・出羽に擬任郡司と擬任軍毅を任ずることを願い、これが認められた。 大同二年、田村麻呂は中衛府改め右近衛府となり、さらにその上級職である右近衛大将になり、侍従を兼ねた。 十一月、兵部郷に任じられた。 大同四年、田村麻呂は正三位に叙せられた。 この年、平城上皇と嵯峨天皇が対立したが、田村麻呂は平城上皇の側につき、遷都のための造宮使に任じられた。しかしその後に起こった薬子の変では、田村麻呂は嵯峨天皇の側についた。 大同五・弘仁元(八一〇)年九月、田村麻呂は大納言に任じられた。田村麻呂の子の坂上広野は近江国の関を封鎖するために派遣され、田村麻呂は平城上皇を邀撃(ようげき)する任を与えられた。上皇は東国に出て兵を募る予定だったが大和国添上郡越田村で進路を遮られたことを知り、平城京に戻って出家した。 当時の奥羽は大和朝廷の支配地域とは異なる文化と制度を持つ独立国でエミシ征伐も奥羽から見れば祖国防衛戦争に他ならなかった。戦争で捕虜となった日高見国住民は俘虜、俘囚と呼ばれて売買されたり、村単位で国々に労働力として送られたり、柵と呼ばれる前線基地周辺で開墾や労働を強制されるシステムになっていた。ともかくこの大軍を相手に一歩も引かず、二十年という長期間を戦う力を有していたことは、北の王朝と言ってよかろう。 弘仁二(八一一)年、宝亀五年から三十八年続いたエミシ征服戦争が終わった。 五月二十三日、田村麻呂は五十四歳で死去した。 田村麻呂の妻は三善清継の娘高子。子に大野、広野、浄野、正野、滋野、継野、継雄、広雄、高雄、高岡、高道、春子がいた。春子は桓武天皇の妃で葛井親王を産んだ。滋野、継野、継雄、高雄、高岡は坂上氏系図にのみ見え、地方に住んで後世の武士のような字(滋野の「安達五郎」など)を名乗ったことになっているが、後世になって付け加えられた可能性がある。 (資料六) 田村麻呂の人物像であるが、伝記には、『大将軍は身長一・八メートル、胸の厚さ、三十六センチ。前から見るとのけぞっているかのように見え、後ろから見るとうつむいているかのように見える。目は澄んで鋭く、黄金色の顎髭が豊かであった』と具体的に、また薨伝には『赤面、黄髭』と簡単に記されている。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。