古代の物流
古 代 の 物 流 2013年12月31日、NST新潟総合テレビ開局45周年記念特別番組で、『遥かなる古代の空〜眠りから覚めた城の山(じょうのやま)古墳(新潟県胎内市)』が放送されました。 4世紀前半に作られた城の山古墳は、1995年以来、地元・新潟県胎内市の教育委員会の手により調査が実施されていましたが、2005年、それまで必ずしも明確でなかったこの塚が、日本海側最北の前期古墳であることが分かりました。さらに2012年の再調査で大和政権の身分の高い人物のものと同じような副葬品が発掘され、大和朝廷が東北方面へ進出していく過程の手がかりになりうるものとして位置づけられたのです。その中に三角縁盤龍鏡がありました。このデザインは、1世紀から3世紀頃の中国(後漢20〜220年、魏220〜265年、晋265〜42年)にみられるもので日本では非常に珍しく、例え中国から直接持ち込まれたものではなく国産であったとしても、大和朝廷を介してこの地域にもたらされたものと考えられています。また年代的に言っても、邪馬台国との関係がうかがわれます。 ただここで気になったのは、三春町実沢にある高木神社です。私は、2010年に『阿武隈川〜蝦夷と大和の境界線』(当ブログに掲載)という本の中に『中国の前漢の時代(紀元前202年〜紀元8年)に作られた前漢鏡の拓本が三春の高木神社から採取され、國學院大學に保存されていることなどから(云々)』と書いたのですが、今回この文章をまとめるについて出典を明確にしようと思い、随分探したのですが分からなくなってしまいました。不勉強の至りと反省しています。もしどなたかご存知の方がおられましたらお知らせいただきたく、よろしくお願いします。再確認をしようと思った理由は、邪馬台国と日本神話について多くの著書を持つ安本美典氏の『高天原の謎』に、夜須川(小石原川・福岡県大刀洗町)の周辺には高木神社が著しく多く、『その祭神の高木神(高御産巣日神・高皇産霊尊)は神話の冒頭で高天ヶ原にある「別天津神(ことあまつかみ)」の1柱とされており、邪馬台国の元来の王(大倭王)は高木神のようだ』と記述されていることにありました。前漢鏡を仲立ちとして、邪馬台国と高木神社がなんらかの関係があったのではないかと考えたからです。 ところで県内の多くの古墳から出土している黒曜石の刃物や装身具として使われた緑色凝灰岩、さらには矢尻を固定するためのアスファルトなど遠距離を運ばれて来た原料や製品があります。しかし胎内市教育委員会水沢幸一氏によると、この古墳から緑色凝灰岩の管玉が見つかっているのですが、分析の結果9点中7点が会津坂下の『宮の北遺跡』で作られていたものと成分が一致したそうです。その宮の北遺跡(住居跡)からは、管玉の未製品・台石・砥石・鉄針・石針など管玉製作の道具が発見されており、玉造の村であったことが分かっています。なお県内の多くの古墳から出土している黒曜石の刃物や装身具として使われた緑色凝灰岩、さらには矢尻を固定するためのアスファルトなど遠距離を運ばれて来た物や製品があります。このことは、(福島県?としては)輸入品ばかりではなく、管玉のような輸出品があったということになります。しかもその原料となる緑色凝灰岩は、新潟や山形の日本海沿岸部からの産出であったのです。このことから考えられるのは、原料を輸入して完成品を輸出する現代的行為であり、当時の物流の様子を垣間見ることができるようです。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。