阿部比羅夫と明治の華族令
阿部比羅夫と明治の華族令 飛鳥時代のはじめ、度重なる蝦夷の攻勢に、ヤマトは悩まされていました。そこでヤマトは、大化3(647)年に渟足柵(ぬたりのき)を高志国(こしのくに・越国)に設置し、翌大化4年には。磐舟柵を作りました。渟足柵は現在の新潟市東区沼垂辺りにあったと考えられており、磐舟柵は渟足柵の北の新潟県村上市岩船辺りにあったと考えられています。 この2つの柵は、ヤマトが2段構えで蝦夷に備えるための防御線にしたのだと思いますが、それにしてもこの2つの柵は100キロ近くも離れていたのです。北からこの磐舟柵に至るのには、海沿いの道と山からの道がありました。磐舟柵は、その2つの道の結節点にあったのです。海沿いの道は今でこそ国の名勝および天然記念物に指定され、日本百景にも選定された海岸景勝地として人々に愛されていますが、その昔は岩壁が続き、『笹川流れ』と言われた交通の難所でした。 西暦658年、阿部比羅夫(この地の豪族であったとも)が斉明天皇の命により、船180艘を連ねて日本海岸を北上して遠征し、雄物川の河口(秋田市新屋町)のアギタ浦(秋田市)に着いたとき、降伏してきたアギタ蝦夷の首長の恩荷(男鹿)に小乙上という官位を与えて渟代(能代)・津軽二郡の郡領に定め、有馬浜(場所不祥)で渡島(北海道)の蝦夷を饗応し、樺太を本拠とする粛慎(しゅくしん)を平らげたとされています。さらに659年、阿倍比羅夫は蝦夷を討ち、一つの場所に飽田・渟代の蝦夷241人とその虜31人、津軽郡の蝦夷112人とその虜4人、胆振鉏(いぶりさえ・北海道勇払郡域)の蝦夷20人を集めて饗応し禄を与えています。その上、後方羊蹄(しべりし)に郡領を置き、粛慎と戦って帰り、虜49人を献じています。ところでこの後方羊蹄があまりにも難読であったため、昭和44年に地元の倶知安町が羊蹄山への変更を求め、後方羊蹄山(しべりしさん)から現在の羊蹄山となったといういきさつがあります。ここで言われる後方羊蹄が、いまの羊蹄山の周辺かどうかは明確ではありません。 660年、阿倍比羅夫は、大河のほとりで粛慎に攻められていた渡島の蝦夷に助けを求められ、粛慎を幣賄弁島(粛慎の本拠地である樺太または奥尻島か?)まで追って彼らと戦い、これを破っています。 なお粛慎とは、本来中国の文献上で満州東部に住むツングース系民族(樺太中部以北のはウィルタ)を指すのですが、阿倍比羅夫に討たれた粛慎とは異なるとみられ『日本書紀』がどのような意味でこの語を使用しているのかは不明とされています。蝦夷以外のオホーツク文化人とも推測され、樺太中部以北に住むニヴフを粛慎の末裔とする説もあります。 663年、ヤマトは唐・新羅軍に攻略された百済の救援のため朝鮮に軍を進めました。しかし白村江でのヤマト・百済連合軍は唐・新羅連合軍との戦いで大敗し、百済は滅亡し、ヤマトは朝鮮半島進出を断念したと言われています。阿倍比羅夫は、この新羅征討将軍となって朝鮮に渡ったとされていますが、事実かどうかは不明です。しかし阿倍比羅夫は、その後、唐・新羅からの報復攻撃を恐れたヤマトに、九州防衛の大宰府師に任命されています。 この阿倍比羅夫の祖先は、8代孝元天皇の皇子の大彦命(おおひこのみこと)とされ、その十四代目の子孫が阿倍比羅夫と『姓氏家系大辞典』にありますが、その生年は分かりません。 さて三春秋田氏の祖とされる安東氏は、安倍貞任の末裔と伝承される北方の名門であり、日本海交易と蝦夷沙汰を担った一族として蝦夷管領を名乗り、南北朝時代には内外に「日の本将軍」を号するほどの勢力を持っていました。天正18(1590)年、豊臣秀吉の奥州仕置後、安東実季は秋田城介を号して秋田氏を名乗りました。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いの後、実季は常陸の佐竹氏と入れ替わり、常陸宍戸(茨城県笠間市)5万石に移されました。そして寛永7(1630)年、幕府の忌み嫌うところとなり、突如伊勢国朝熊(三重県伊勢市朝熊町)へ蟄居を命じられたのです。嫡男の俊季との不和説などがありますが、詳細は不明です。この秋田俊季は常陸宍戸藩主となり、のち陸奥三春藩主となります。 秋田俊季は、慶長19(1614)年からの大坂の陣において、幕府軍の一員として出陣しています。その後も幕府による普請手伝い、将軍徳川家光の上洛随行など、幕府に忠勤を尽くしていました。しかし、父実季とは次第に不仲になり、寛永7(1630)年に父の実季が失脚すると、幕命により秋田氏の家督を継承したのです。 正保2(1645)年、俊季は陸奥三春に5万5千石で移封されたのですが、慶安2(1649)年1月3日、勤番中の大坂城で、父に先立って病死してしまいます。その後を、長男の盛季が継いだのです。盛季は、陸奥三春藩の第2代藩主となります。 この親子の不仲の原因ですが、実季が、秋田家の祖をナガスネヒコの兄の安日王であると主張したのに対し、子の俊季は阿部比羅夫と同じく大彦命であると主張したことにあったらしいのです。しかし俊季が先に亡くなったため、結果として、孫の盛季は祖父の実季の意見を取り、安日王を祖とする説を、次世代以降に伝えていったと考えられています。 一挙に明治2(1869)年の話に移ります。版(領地・版図)籍(領民・戸籍)奉還と同日に出された行政官布達(公卿諸侯ノ称ヲ廃シ華族ト改ム)により、旧藩主は華族となることが定められました。当初は華族に等級はありませんでしたが、本人一代限りの華族である「終身華族」と、子孫も華族となる「永代華族」の二つが存在していました。そして明治4(1871)年には皇族華族取扱規則が定められ、華族は四民の上に立ち、その模範となるよう求められました。 宮内省は華族令を実施するため旧藩主たちにその出自を明確にするよう求め、旧藩主たちはその先祖を天皇家や源平藤橘(げんぺいとうきつ)などの諸姓に繋ぎ、権威付けをして提出しましたが、三春藩秋田映季(あきすえ)ただ一人が先住民・長脛彦の後裔をもって報告したのです。この系図を提出された宮内省の側とすれば、安日王・長脛彦は神話の中であったとは言っても日本史上最初の皇室への抵抗者であり、その後の阿倍貞任・宗任や平泉の藤原氏に至っても中央権力に抵抗した側の首領、つまりは逆族・朝敵であるということになってしまうことに困却しました。「いやしくも皇族の藩屏たる華族の先祖が、逆賊・朝敵である安日王の子孫では困る」 この秋田氏の系図の取り扱いに苦慮した宮内省が調べてみると、先に秋田俊季が幕府に提出していた系図に、秋田氏の遠祖が第八代の孝元天皇にはじまりそのあとは四道将軍の一人の大彦命に続いているということが記載されていたことが分かりました。となれば、阿部比羅夫と同じ祖先になります。これであれば問題はありません。宮内省はこの系図への差し替えを求めました。しかしこの申し出を、秋田家はなかなか受け入れなかったと言います。 「恐れながら、当家は神武天皇の御東征以前の旧家ということをもって家門の誇りといたしております。天孫降臨以前の系図を正しく伝えておりますのは、はばかりながら出雲国造家と当家のみでこざいます」 こう答えて系図の改訂を拒否したことを、大正期の歴史学者で『えみし』研究学者でもあった喜田貞吉氏が紹介しています。この出雲国造家とは、大国主命に国譲りの交渉を受けたとされる天穂日命(アメノホヒノミコト)の末裔とされる家です。しかしこれに対し秋田家では「拒否したと言う事実はない」と抗議し、喜田氏も取り消すという騒動が起こっています。もっとも秋田家は宮内省の意向を拒否はしなかったとは言うものの『安日王の子孫』であることも否定していません。そして秋田家は子爵となったのです。秋田一族の結束は強く、同族となる北海道・松前藩家老職の下国氏は参勤交代などで江戸に行く際にはほぼ例外なく三春の秋田家を訪れ、三春藩主への挨拶を欠かさなかったといわれます。 なお現在、秋田氏は宮内庁にある披講会に属し、宮中の歌会始で歌を整理し講師に渡す読師、読み上げる講師、講師の読み上げた後合唱する講師など、代々この役を務めておられます。歌会始は、TVでも放映されますので、もしかしたら昔の三春の殿様の声かも知れないと思って聞かれるのも、興味深いことかも知れません。 今から正月が楽しみです。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。