三春戊辰戦争 4:浅川の戦い
三春戊辰戦争 4:浅川の戦い 慶応4年5月1日、三春藩は、同盟側により棚倉出兵を命じられました。白河の攻防戦に備えての出兵であったのでしょうが、すでにこの日、白河は新政府軍により奪回されていました。しかしこのような事情の中で三春藩が出兵すれば朝廷に刃を向けることになり、出兵しなければ同盟の各藩に押しつぶされることになります。ある程度の時間を費やしたのち、三春藩は出兵の決断をしたと思われます。この三春藩の白河への出兵遅延と、引き続いた須賀川結集への遅滞は、朝廷への消極的忠義の姿勢であったのではないでしょうか。 5月3日、秋田、秋田新田、弘前、黒石、本庄、矢島、亀田、新庄、天童などの各藩が奥羽列藩同盟を離脱しました。これらの藩は、仙台や盛岡藩の攻撃を受けることになる一方で、新たに越後の6藩が奥羽列藩同盟に加盟、ここに奥羽越列藩同盟が成立するのですが、すでにこの段階で、奥羽越は一枚岩ではなくなっていたことになります。つまり同盟とは言いながら、その加盟藩のすべてが同じ考えであったとは限らなかったということでしょう。この奥羽越列藩同盟結成後こそが、三春藩にとって最も困難な時期となったのです。 5月30日、秋田広記は湊宗左衞門を帯同して、新政府の参議・穴戸五位や副総裁の岩倉具視と会見して歓待を受け、その上で弁事役所に、御進軍御救助嘆願書を提出したのです。『(前略)譬城下焦土にニ相成候共 勤王之赤心不仕官軍御到着待尽力仕候外他念無御座 万之助始家来共迄決心罷在申候 奉仰望候者 右之赤心御憐被成下早々御進軍御救助奉歎願候 以上五月晦日 弁事御役所 秋田万之助家来 秋田広記』 さてここの部分で、ある歴史家に「三春は何故岩倉具視に接触できたのか?」という疑問を投げ掛けられました。私は、「三春が数少ない朝廷側の藩であっため、味方として固める必要があったからではないでしょうか」と答えましたが、それ以上の話にはなりませんでした。しかし少なくともここで、三春藩は朝廷に尽くすことを明言しています。それでも秋田広記らは心配であったのか、翌6月1日、前日の嘆願書につき、『右書面を万一御日記などへ書き残されれば、敵の耳目にも触れることもあるかと深く憂慮しているので、事が成るまでは公表なされないよう』にと嘆願しています。そして6月3日、朝廷より三春藩へ、新政府軍進撃救援の勅書が下されたのです。 『秋田万之助 奥羽諸藩順逆を不弁、賊徒へ相通じ、官軍に抗衡候者も不少趣に候処、其方小藩を以て敵中に孤立、大義を重じ、方向を定、従来勤王之志、君臣一意徹底致し居候段、神妙の至に候、百折不撓大節を全可致候。不日官軍諸道より進撃救援可有之に付、此旨相心得可申候條、御沙汰候事。 六月』 しかし6月12日、5月1日に行われた同盟軍による白河奪還作戦に於いての三春兵の棚倉出兵について新政府軍の嫌疑を受け、在京の秋田広記らが御所の非蔵人口へ呼び出され、禁足の沙汰が出されたのです。 『秋田万之助其藩事、賊中に孤立し、大義を重し候段、本月三日御復褒詞被賜候処、豈図らんや棚倉に於て賊軍を助け候哉に相聞え、不届の至に候、依之御処置可被仰出候得共、追々事実御検査被為在候迄。先京詰の家来、屋敷に於て禁足、他審へ出入被差止候旨、被仰付候事。 六月』 三春藩としては、一番恐れていたことが発生したことになります。 一方6月16日、平潟(北茨城市)に上陸した新政府軍に対し、棚倉藩が救援に向かいました。そして6月19日には、平藩が今のいわき市内にあった笠間藩の飛地である神谷陣屋を攻め取ってしまったのです。大政奉還後、共に朝廷へ恭順の使者を出した平兵による笠間藩飛地への攻撃を、三春藩はどう見ていたであろうか? それは、会津藩による長沼藩の陥落に引き続いての事件だったのです。これらの事件は、三春藩首脳の心胆を寒からしめたには違いないと思われます。白河城を確保し、数度の奥羽列藩同盟軍の反撃に耐えていた新政府軍は、北部に進出する手順として、平藩近くにあった自領飛地防衛のため手薄となっていた棚倉、及び浅川の攻撃をはじめたのです。 棚倉は白河から西へほぼ18キロ、浅川はそれより北に約9キロの位置にあり、白河から郡山・二本松への奥州街道の裏道にあたっていました。もし新政府軍がここをそのままにして北部を攻撃すれば、背後から突かれる恐れがあったのです。 7月16日、棚倉を陥とし、さらにその北の浅川の町を占領した新政府軍と、町の北郊の古舘山に拠った仙台藩の伊達筑前の手勢である登米の一大隊と砲隊、二本松四小隊、会津三小隊とが戦闘状態に入りました。その時、同盟軍軍務局は三春藩に対し、古舘山への応援を命じたのです。初期の白河での戦いのときは、奥羽列藩同盟がまだ平和同盟の時であったから問題はありませんでした。しかしこの命令は、勤王の意志を朝廷に表示し、しかも秋田広記らが新政府軍の疑惑を受けて禁足の沙汰を出されていた三春藩としては、判断に悩まされる命令でした。それでも三春藩は、兵を浅川に送ったのです。ところが三春兵が母畑(古舘山の北ほぼ12キロ)に到達した頃、そこへ古舘山から敗走してきた会津・二本松・仙台兵と合流し、そのまま全員が三春へ退却して行ったのです。このような事実が、次のように歪曲されて伝えられるようになってしまったのです。『古舘山応援令に従って古館山の北辺に到着した三春兵は、南から攻める新政府軍に呼応して会津・二本松・仙台兵を挟み撃ちにし、これを破った』と・・・。 大同小異とは言え、このように多くの文献で語られてきたことが、やがて歴史そのものと曲解され流布されていき、『三春狐に騙された』と誹られることになるのです。そこでこのことを知り得る文書から関連する記述を抽出し、その実情を探ってみました。 先ずここでの情況を新政府軍側の記録から見ると、黒羽藩記は、『薩摩藩ならびに弊藩、人数をそれぞれ分配、賊の横合い並びに裏手の方より打掛け』とあり、その他にも山内豊範家記(土佐藩)、井伊直憲家記(彦根藩)、土持左平太手記(薩摩藩士)、東山新聞などに異口同音の記述があります。つまり新政府軍は、三春兵との共同作戦をとっていないということです。 そして仙台藩記です。 仙台藩記は、『7月26日、塩森主税棚倉屯集ノ官軍ヲ進撃、三春、二本松、会津、棚倉ノ兵ヲ合併、奥州石川郡浅川古館山ヨリ進テ浅川ノ渡ヲ隔テ砲戦ス、釜之子ト申所ヨリ官軍会津ノ兵ヲ破リ,浅川ノ後ニ出ルト、三春藩中途ニシテ反復ス、頗ル苦戦ニ及ヒ、各藩共支ル能ハス』と記しています。しかしこの記述をよく読んでみると、三春兵は、二本松、会津、棚倉の兵と共に古舘山にいたことになります。その三春兵は、『三春藩中途ニシテ反復ス』とされています。反復という意味が明確ではありませんが、これはどう読んでも、一緒に守っていた『二本松、会津、棚倉ノ兵ヲ』攻めたということになるのではないでしょうか? しかしこれは、現実的な行為とは思えません。なぜなら、こんなことをしたら三春兵は、たちまち仲間に滅ぼされてしまうのではないでしょうか。 これについて決定的な記述が、二本松藩史、戊辰戦役史(上)、そして仙台藩記に掲載されていました。『二本松藩史 一六九ページ』に、『この戦闘で彦根兵は戦死が二、傷四、薩兵は傷二を出したに過ぎず、仙兵は死十六、傷八、二本松兵は傷七、会兵は未詳であり、長時間戦闘した割には両軍ともに死傷者は少なかった。』との記述があります。このように二本松藩史では、死傷者数を具体的に示しているにもかかわらず、三春藩の死傷者数の記載はないのです。これは三春兵による戦闘の事実がなかったことの傍証となるのではないでしょうか。 次いで戊辰戦役史(上)四七〇ページには、次の記述があります。『会津戊辰戦史には三春兵が離反し、官軍に投じて同盟軍を撃ったため、同盟軍が敗退したように書いてあるが、官軍の諸藩報には、いずれも背面攻撃の効果を述べ、また背攻に当たった薩、黒羽藩の戦況報告、「土持日記」「東山新聞」にも記されているから間違いはない。三春離反についての記録はなく、仙、会軍を攻撃、戦闘したとは認め難い。』 小藩が両強軍の衝に在りて存亡の危機に際し、進退の節を変ずるは多少憫察すべきの事情なきにあらずと雖も、初は深く秘して其の進退を明らかにせず両軍に均しく狐媚を呈し、一朝決意するや、忽ち反噬の毒を逞しうせる者、東に三春あり、西に新発田あり。と筆誅を加えたのは、会津戊辰戦史である。山川健次郎を監修者とし、旧会津藩士を編纂委員とした同書の立場からは、この発言も無理からぬところであったろう。』 なおここで筆誅を加えたとされる山川健次郎は白虎隊員でしたが、訓練の段階で15歳の少年に鉄砲はあまりにも重過ぎたためとして訓練から外されています。ですから彼は、浅川の戦いには当然参加していません。恐らく浅川で戦った会津藩士の話を聞いてこのようなものを書いたと思われます。のちに山川は、東京帝大、京都帝大、九州帝大の総長などを歴任しています。このような彼の重い立場からの発言が会津戊辰戦史に載ることで、信憑性のあるものとして巷間に流布したのではないでしょうか。もうこうなると、『何をか言わんや』という思いです。これも三春藩が、挟み撃ちをしなかったことの証明になるのではないでしょうか。ではこれに関して三春町史は、どう見ているでしょうか。 三春町史2巻762ページには、『(7月)17日の風聞では、棚倉、石川、浅川にて。前日暁天に大合戦あり、いずれも奥羽方が敗れたが、当家人数に死者、手負いはないとのことである。』とあります。 戦いの最前線の陣地内で反復(叛乱を意味するのか?)したとされる三春兵に、一人の怪我人もないということは、やはり戦闘そのものがなかったことの傍証となるのではないでしょうか。また三春町史3巻5ページには、『浅川の戦いでは反同盟の疑いをかけられ、仙台藩士塩森主税の詰問を受けると、外事掛不破幾馬らが弁明して事なきを得た。』と記述されていますが、浅川で叛乱などしていないのですから、事なきを得たのは当然のことと思われます。 そこで、これら三春町史と同じころ編纂された各地の資料を確認してみました。 先ずおかしいことは、会津若松市史に浅川の戦いそのものの記述がまったくないのです。ということは、少なくとも会津若松市史の編集者は、この戦いに重要な意味を感じなかったということではないでしょうか。そして浅川町史には、『三春兵は同盟軍への出兵を拒否したと思われる。』とありました。三春兵は、浅川に到達していなかったとしているのです。ともかく戦いのあった地元では、こう見ていたのです。 この浅川での戦いの後、三春と守山両藩の反盟の形跡があるとされ、同盟軍は、三春および守山藩の討伐を決定したようです。『そのとき、「反盟の形跡明らかならざるに、徒に私闘をすべきではない」と言って慎重論をとなえたのは、仙台藩の将・氏家兵庫でした。彼は腹心の部下、塩森主税を三春に派遣したのです。しかし塩森は三春藩と話合いをしたものの、不問に付している。』とされているのです。 これら多くの記述は、三春藩が挟み撃ちどころか、戦わなかったことの傍証となるものがすべてなのです。これらについては、今後もよく検証される必要があると思われます。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。