14 鉄道よもやま話②
14 鉄道よもやま話② 列車の運賃はヨーロッパに倣って三等級制が採用され、大人一人が全区間を乗車した場合、上等が一円十二銭五厘。中等が七十五銭、下等が三十七銭というように設定されていた。なんだか妙に半端な値段であるが、なぜもっとキリの良い価格設定にできなかったのであろうか。この頃は時間の問題だけでなく、多くの日本人がまだ江戸時代を引きずっていた。鉄道開業の当時、駅に貼り出された汽車の出発時刻および賃金表には、江戸時代からの貨幣単位である両・分・朱で表示したものと、新貨幣単位の円・銭・厘に換算したものが並んでいたという。このようなことは、当時の庶民が、両・分・朱の旧単位の方が円などの新単位よりはるかに理解しやすかったため生じたものだと言われている。この傾向は明治十年代ぐらいまで続いたようで、地方ではその頃まで天保銭などが流通していたという。 東京以北に初めて特急列車が誕生したのは、昭和三十三年十月のことである。上野・青森間に一往復設定された『はつかり』がそれです。もちろんその使命は、東京と東北本線沿線の都市と直結すること以上に、北海道への連絡が大きなウエイトを占めていた。この特急『はつかり』の運転開始当初は、上野〜青森間のうち日暮里・岩沼間は常磐線経由とされ、ルートから外れる東北本線沿線の宇都宮、郡山、福島などの都市は全く無視された格好となっていた。これはなにも『はつかり』に限った話ではなく、この頃はなぜか、上野から仙台へ、そして仙台より先に向かう急行列車の多くが常磐線回りであった。これを見る限りでは、常磐線の方が本線で東北本線は支線といった感じがするが、なんでこんな珍妙なことが起きてしまったのであろうか。常磐線沿線にはいくら炭鉱が多かったとは言え、それほどまでに重要な都市がひしめいていたというわけでもなかった。 東北本線の上野〜青森間が全通したのは明治二十四年九月であった。これは私鉄の日本鉄道が開通させたものであるが、その線路は黒磯〜白河間、郡山〜福島間、福島〜白石間などに急勾配区間が多数存在していたのである。このことが輸送力増強とスピードアップの面でネックとなっていたのである。そんな折の明治三十一年八月、同じく日本鉄道の手により、現在の常磐線である海岸線の田端〜岩沼間が全通した。海岸線と言うだけあって、この線は勾配の少ない平坦な路線となっていた。そのため東北本線経由の列車が一部、常磐線に移ったのである。しかし、戦前はまだ東北本線の方がメインルートとされていた。それが逆転するのは戦後のことで、昭和二十年代に新たに設定された急行列車の多くが常磐線を選択したのである。これは激増する旅客需要に対応するため、一列車あたりの連結車両数が増えたことが要因のひとつと考えられるのですが、当時の動力車の主力は蒸気機関車であったから、東北本線経由とすると、勾配の関係で連結両数が制限されざるを得なかったという事情があった。ところが東北本線には福島で分岐する奥羽本線秋田方面に向かう列車を多数設定しなければならないという状況があったのである。しかしそんな東北本線であったが、昭和四十三年八月に全線複数電化が完成し、勾配自体も線路の付け替えなどで緩和されて状況はかなり変わった。『特急はつかり』は電車化されたうえで東北本線経由に改められ、以降の増発列車も東北本線経由が中心となっていった。勿論この頃には常磐線も全線電化が完成していたが、平以北はほとんどが単線だったため。全線複線の東北本線にはとてもかなわなく、だんだんその地位は低下していった。ただし、夜行列車に限って言えば東北新幹線開業まで、常磐線がメインルートとされていた。しかし東北新幹線が開通し、飛行機が長距離輸送の主役とされる今となっては、東京から東北・北海道への輸送において、両線ともほとんどその機能を果たしていない。 鉄道国有化後の明治四十五年六月十五日、従来の新橋・神戸間の『最急行』を下関まで延長し、『特別急行』と改称された。この日本最初の特急列車は新橋を八時三十分に発ち、下関には翌朝九時三十八分到着、所要時間は二十五時間八分、対となる上り列車の所有時間は二十五時間十五分で、今から見れば、ずいぶん時間がかかっているようにも感じられるが、当時としては画期的なスピードであり、しかも列車の編成も特別急行の名に恥じない豪華なものであった。まず三等車は連結されず、一等車と二等車のみで編成、座席車以外に寝台車や食堂車、そして最後部には特別室を備えた展望車まで連結された。その展望車の内部装飾には、網代天井、各天井、吊灯籠式照明、すだれ模様の窓カーテン、日本式の欄干、藤椅子などと、心にくいまでの和風趣味がふんだんに取り入れられていた。展望車特別室の書架には、日本文学全集の他に洋書も多数取り揃えられ、車掌も英語の堪能な列車長が乗務したという、まさに走るホテルであった。 ところで、この特急列車が新橋・大阪間というのであれば、政財界の要人の利用も多いわけで編成の豪華さも頷けるが、なぜ本州の西の外れの下関まで足を伸ばしていたのか。実はこの特急列車は、国際列車の性格を持ち合わせていた。下関と朝鮮半島先端の釜山との間には山陽汽船による関釜航路が開設されており、当時日本領であった朝鮮半島を北上、これを満洲、シベリアを経由してヨーロッパ諸国とを結ぶ欧亜連絡ルートの一部を形成させようとしていた。これは日本人だけでなく、ヨーロッパ諸国の要人の利用も想定して新設されたものである。日露戦争に勝利した日本は、世界の一等国の仲間入りを果たしたわけだから、それに恥じない国力の象徴としての国際列車が必要だったと考えたのでしょう。 終戦直後、多くの列車が現在の首都圏における朝の通勤電車など足下にも及ばないほどの殺人的混雑にあった。その混雑もさることながら、車両の荒廃もものすごかった。客車の窓はガラスが割れたものが多く、代わりにベニヤ板がはめ込まれていたり、あるいはそれすらなかったといった状態だった。戦時中に敵の機銃掃射を受け、車体にいくつも穴の開いている客車まで使われた。とにかく最悪の設備、車両、そして少ない列車の本数で洪水のように押し寄せる人々を運んでいたのである。そのような列車を横目に、寝台車や食堂車などが連結された豪華な列車も走っていた。そして、その列車はほかの多くの列車のように乗客が鈴なりになっていたわけではない。日本人は、これに乗ることは許されなかったのである。これらは、進駐軍専用の列車だったのである。昭和二十年八月十五日の戦争終結後、日本は進駐軍総司令部GHQの統治下に置かれた。当然、国有鉄道もGHQの管理下とされた。そして進駐軍関係の輸送は絶対輸送優先だったのである。 進駐軍は、無傷で残っていた寝台車、展望車、食堂車などの優等車を中心に状態の良い車両を五百両近く召し上げ、運輸省に整備を命じ、車体にはAllied Forces(連合軍)の文字が記された。多くの日本人を乗せた窓ガラスもろくにないようなオンボロ列車を駅に待たせておいて、この列車が颯爽と追い抜いていったのである。しかし昭和二十二年頃からは進駐軍専用車に空席がある場合に限って二等運賃を払えば日本人も乗車できるようになった。ただ、乗車券の裏には、次のような注意書が書かれていた。進駐軍専用車御乗車の方へ。乗車の際には乗車券を必ず車掌に提示すること。空席のない場合には絶対に乗車しないこと。連合軍またはその家族が後から乗車して、座席のない時には必ず席を譲って他の車両に乗り換えること。専用車内に立っていることは許されません。専用車は、昭和二十七年三月の占領終了まで存在していたのである。(この稿、所沢秀樹著『鉄道地図の歴史と謎』より。の稿、所沢秀樹著『鉄道地図の歴史と謎』より。