守山藩の目明かし・⑤
守山藩の目明かし・⑤ 金十郎の金掘り職人探し 金沢村、今の田村町守山金沢にある禿山が、銀山ではないかとの検分のために、江戸の山師の三人が守山に到着しました。彼らは銀という性質上、秘密裏に試掘するのが目的でした。彼らは陣屋に対して、「山色がすこぶる良く、掻き流しも二ヶ所付けられそうなので、試掘して検査したい。それについては半田銀山、いまの桑折町の半田銀山から二・三人の金掘り職人を雇いたいが、信用のある目明かしを派遣してもらいたい。」と申し出たのです。そこで選ばれた金十郎は、郡山で一人の金掘り職人を探し出したのですが、半田の仲間にも、金掘り職人を見つけるよう頼みました。間もなく半田銀山から、金掘り職人が二・三日以内に守山に着くと連絡があったので、それを陣屋に報告しました。いよいよ堀り始めた頃、銀山が守山藩直営となったので惣奉行が任命され、その下で金十郎と新兵衛が現場の見回りをするように命じられたのです。銀山惣奉行は、掘り出した銀山の荷を出荷して間もなく、江戸へ出立しました。その後、灰吹銀の結果が陣屋に知らされてきたのですが、思わしいものではなかったといわれます。 越後女の縁談 法度とされながらも、金十郎が無宿者の世話をしたり、縁談の仲介をしたりすることは、たびたびありました。二本松から越後高田、いまの新潟県上越市に移り住んだ金具師の喜右衛門は、新発田藩家中の大刀と小刀を六腰盗み、守山へ逃げて来たのですが、その後二本松へ戻って行ったようでした。越後に残されていた男の女房が居づらくなり、目明かしの金十郎を頼って守山に移って来たものの、夫の行方は確かではなかったので、そのまま金十郎の世話になっていました。そこで金十郎は、この女を源七の家の手間稼ぎに送り込んだのですが、女房を亡くしていた源七の後添えに良いと思って世話をしたのです。ところが守山藩では、他領よりの入籍と他領への移籍は、陣屋に届け出て許可を得る決まりになっていました。それなのに金十郎が無届けにしていたのは、役目柄、不届きであると決めつけられたのです。この処分について、金十郎の菩提寺である金福寺が、訴願にやってきたのですが許されず、三度にも渡った訴願により、ようやく処分が解かれました。 目明かし新兵衛の罷免 金十郎と一緒に目明かしをしていた新兵衛が、罷免されました。彼が隠れて鉄砲を持っていたという嫌疑から発展し、免職になったものです。寛延の大一揆のとき、目明かしの新兵衛を引き渡しの要求があった位でしたのに、その後も、脅しや強請(ゆすり)や、たかり、その他にも示談屋的な行動が治まらなかったのです。新兵衛と村役人が呼び出され、「家で人寄せをするな。」「他領の風来者を、一夜でも泊めるな。」「縁組など他人の世話をするな。」「大元明王の祭礼であっても、神楽打ちや薬売りの宿はするな。」という内容の禁止条項が読み聞かされた上で、免職を申し渡されたのです。これには、金十郎も同席させられていました。 風来者 風来者とは、街道筋を無宿者のヤクザや無頼の徒が、一人旅の姿で徘徊するのを言います。俗に、旅烏とか一匹狼というのがそれにあたります。守山陣屋でも、もし『風来者』が来たら、『例え一人であっても泊めないようにせよ。』との触書を出していました。そのような一人者の風来者の幸八が、河原者に袋叩きにされ、守山領から追い出されたのですが、舞い戻った幸八は、大雲寺に押し入ったのです。知らせを受けた金十郎はこれを逮捕したのですが、まだ何も盗んだわけではありませんでした。泥棒とも強盗とも認めるわけにいかず、守山陣屋ではこの事件の始末を金十郎にまかせました。そこで金十郎は、「二度と再び、ここへ来るな!」と叫びながら、力一杯鞭で叩いて守山領から追い出したのです。なおここに出てくる河原者とは、動物の屠殺や皮革加工を業とした者たちで、河原やその周辺に居住していたため河原者と呼ばれていたのです。河原に居住した理由は、河原が無税であったからという説と、皮革加工には大量の水が必要だからだという説があります。 無宿者人の始末 三春藩郡奉行から、手紙が届きました。それは三春領過足村、いまの三春町過足の全応寺の隠居所に強盗が入り、住んでいた隠居を絞め殺した犯人を二本松領の郡山で逮捕したのですが、その犯人は、守山領蒲倉村、今の郡山市蒲倉町の述五郎と言っているが、間違いないか、というものでした。述五郎は守山領内の者ではあったのですが、事件を起こした場所が三春領内であったので、三春藩の処置に任せています。このような悪事をした述五郎の罪状がどうなったかは、不明です。 強制欠け落ちの顛末 金十郎は、クビにされた新兵衛に代わって、新しく目明かしとなった兵蔵とともに、強制的な夜逃げに関係することになりました。これは、三春領で強盗同様の犯罪を犯した蒲倉村の喜十郎を、面倒が起きないうちに守山領から強制的に追い出してしまおうというものでした。その犯罪の内容は、喜十郎が三春領春田村の庄左衛門宅に押し入り、カネを盗ろうとしたことです。喜十郎は庄左衛門に抵抗され、家族の者に大声で騒がれたので、何も取らずに逃げ出しました。守山領の者が三春領で事件を起こしたのは、陣屋としては実に具合が悪いことです。そこで無理にでも守山から追い出して、三春藩との関係を穏便に済ませようとしたのです。喜十郎は、いったんは納得して家財道具の始末をし、挨拶のため祖父の元へ行ったのですが、朝になって金十郎の家に現われ、「自分は相手に何の実害を与えていない。それであるから、逃げ出したりはしない。」と申し出てきたのです。金十郎の報告を聞いた守山陣屋では召喚状を発して身柄を拘束すると脅しました。驚いた喜十郎は、次男を連れて逃げ出したのです。 酒造業の看板 守山陣屋は、領内の酒造業者十二軒に、酒林と新諸白、一升ニ付何程との書付を出すようにとの指示を出しました。ところが何軒かの酒屋がそれに従わなかったため、それぞれに営業停止の処分をしたのです。酒造業者らは、一様に、そのような指示を知らなかったと申し立てたのですが陣屋ではそれを認めず、我儘な仕方で重重不届であるとして、商売の遠慮を申し付けたのです。町内の僧侶たちが陣屋に行って彼らの無罪放免を願うことで、事なきを得ることができました。ともあれこのような問題などで領民が困った時、僧侶が仲裁に立ったのです。酒林とは、杉の葉で作られた大きなボールのようなもので、その枯れ具合で酒の熟成度を客に知らせる看板のようなものです。 寛延大一揆 寛延二年(一七四九年)十二月十一日桑折、いまの桑折町の代官が支配する幕領で、百姓一揆が勃発すると、十四日には三春藩で、二十日には二本松藩で、二十二日には会津藩でと、たちまち広がっていきました。そして二十三日の夜からは、守山領の北部で、一揆の火があがったのです。そこで発生した百姓の一揆の結束が南下しながら膨張、十二月二十五日には守山陣屋の門前まで押し寄せ、守山町をはじめ、大善寺村、山中村、正直村などで打ち壊しが始まりました。いわゆる寛延の大一揆です。この一揆発生の理由ですが、守山藩では、去年も今年も二年続きの凶作の上、この年の六月末には暴風雨に見舞われ、八月には大嵐があったので、凶作になるのは目に見えていたのです。そこへ他の藩で起きた激しい一揆の続発が、守山領北部の村々へ強い刺激を与えたのです。一揆の百姓たちが守山陣屋に突きつけた要求は、全部で十四ヶ条ありました。その主な要求は、三春藩、二本松藩と同じ様に年貢を半減にしてもらいたい、年貢米一俵につき五升三合取るのは止めてもらいたい、というものでしたが、それに加えて、目明かし新兵衛の身柄引き渡しの要求があったのです。新兵衛は、日頃から百姓たちから憎悪の目で見られていたので、真っ向からその怒りの波をかぶることになったのです。しかし新兵衛は、一揆による騒動の夜、母親が病のため看病をしていたので何も知らなかったと答申しています。怒涛のように押し寄せてくる一揆に対して、抗すべきもののないことを承知していた新兵衛の、逃げ足は早かったのです。この金十郎がヤクザの身ながら、この『御用留帳』の最初に名が出てきたのは、享保九年(一七二四年)のことでした。最初は、守山陣屋の御用を務める役でしたが、それから十四年後の元文三年(一七三八年)には、正式に『目明かし』となりました。彼が退任したのは明和七年(一七七〇年)でしたから、実に四十六年もの間、守山藩に奉職したことになります。彼が生まれた年の記述はありませんが、その時すでに、年齢は七十歳を越していたと思われます。