戦後のハワイ
戦後のハワイ 「今でも100隊の寡婦で、週に二回欠かさずお参りに来る人がいます。ここにはホノルル出身者が多く、祀られているのです。それぞれの島にも国立墓地があります。親がお参りし易いように、出身地の島に祀った人も多いのです。」 (ドロシーラ・タナカ) 戦死者の親たちの言葉が残されています。 ホノルルの自宅で次男の戦死を知らされた父親が「死にゃせん、死にゃせん。」と繰り返しながら、台所の丸テーブルの周りを何時間も回り続けていた。 (L中隊・ノゴル・フジナカ軍曹の父) コナのゴロウ・マツダ一等兵の遺族からは、丸い黄銅の壺に入って五男が戻った時、山口県大島出身の今は亡き母が「これが五郎ちゃんか?」と絶句した話を聞いた。母は息子の骨の一片を、つかれたごとく口にすると、いとおしげに噛み、呑み下したという。 同じコナの故ツヨシ・イワモト伍長の母ミサオは、「やはり早く亡くなる子だった。」と思えるほど優しい長男だったと語る。 アイダホからの故キヨシ・ムラカミ一等兵の母・家野(やの)は、本人が行きたくて志願しての戦死だからと自分に言い聞かせてきた。「正直な話、いまだに諦めきれん。20歳でしたがなあ。」そう語った時、いまだに声をひそめて回りを見回したのが印象に強く残っている。 沖縄からの移民であったシンエイ・ナカミネ二等兵の命日は6月2日、連合軍がローマに入城の二日前、第100歩兵大隊がついに第5軍にローマへの引導を渡す戦闘での死であった。DSC(殊勲十字章)を、シンエイの形見として残している。小さい時から文句一つ言うことなく働いてくれた孝行息子の軍服姿の写真の額を母のウシは、胸にかき抱くようにしてから私をじっと見た。 「お国のためじゃけに・・・」 喉にからむような小さな声で一言そう言った。涙がにじんでいた。沖縄に住んでいた家族は、アメリカ軍の沖縄上陸作戦で全滅した。まだ元気だったウシの老母も、姉とその子供たちも皆、アメリカ軍の沖縄上陸作戦に巻き込まれての犠牲であった。日本帝国陸軍の最後のあがきは住民を戦禍に巻き込み、死者十数万人を出すに至っている。米軍の集中砲爆を逃げ切れなかったのか、壕の中で自決したのか、故国の家族の最後を、仲嶺ウシは知らない。 (ブリエアの解放者たち) 亡き人の かたみとなりて 朝夕に 我が眼に触るる ものみな悲し 一区 岡田文枝 ハートマウンテン収容所新聞 1945/3/10 戦後になって、イタリア語で書かれた手紙が、リチャード ホンダの妻に届けられた。 『優しいご夫人。八日以前、山を登っての戦いで塹壕が見つけられました。その土砂を取り除いた塹壕の中に、あなたの夫のご遺体がありました。認識番号・#30,100,958,T-43 リチャード ホンダでした。 決まり言葉ですが、私はローマでアメリカのコマンドに知らせました、そして彼らはすぐにご遺体をアメリカの墓地に持って行きました。 私はイタリアからあなたに弔辞を送っています。 ポターニ アントニッチオ』 その後の平成十八年八月十五日、福島民報紙上の『語り継ぐ平和』に、私がハワイで取材した『日系人部隊』が掲載された。そして何日か後に、福島市の佐藤ムツ子さんという方から電話が入った。「私の叔父が第100歩兵大隊に参加していてイタリアで戦死しました。あなたの書いた本(マウナケアの雪)を譲って頂きたいのですが・・・」私は、当時執筆中であることを話しながら様子をお聞きしたところ、「知らされた昭和二十五年頃、私は小学校低学年でよく憶えていないのですが、イタリアの農夫が農作業中に遺体を見つけ、残されていた認識票で叔父だと分かったそうです。そのことをハワイに住んでいた叔父の父・清三郎が知らせてくれました。叔父の名は佐藤実です。」 私はその話をホノルルの第100歩兵大隊資料館に問い合わせをしたが要領を得なかった。メールの遣り取りをしている間に、佐藤ムツ子さんからパンチボウルに埋葬されたときの古い写真のコピーが届き、裏をみると本田実と書いてあった。「アッ、ご自分の姓の佐藤と間違えられたか。」と思った瞬間、私はロバート・サトウの話していたリチャード ホンダの名を思い出した。佐藤ムツ子さんに確認したところ、「英語名は、まさしくリチャードでした。リチャード ホンダでした。」ということであった。その後、第100歩兵大隊資料館から送られてきた資料とロバート・サトウ氏からの手紙を和訳し、福島市のお宅まで届けに行ってきた。福島市には、彼の墓が作られていた。戒名は『勇秀院義豊良稔居士』であった。送られてきた遺髪を祀ったという。 平成十九年三月、取材のため再び渡布した際、私はロバート・サトウに古い写真を見てもらった。彼が言った。「そうですか。リチャード ホンダはイタリアに埋葬されたとばかり思っていました。それで、彼の遺骨は福島に運ばれたのですか?」「いいえ、そうではないようです。佐藤ムツ子さんの話によると、遺髪を祀ったと言っていました。それでお墓を作ったのだと思います。このようなとき、日本の習慣として、魂が家に戻ってくるという考え方があるのです。太平洋戦争で多くの日本人が死にましたが、遺骨の回収もされないまま、このようにして祀られた方が大勢います。」 ロバート サトウが、その時の様子を話してくれた。「われわれは小さな崖の下に小さな塹壕を掘った。しかしそれは、安全なものでものではなかった。リチャードと私は銃撃にさらされていたので、小さくしか掘れなかった。しかし彼は速く疲れたようでした。そこで私は彼に『もう一つの塹壕を掘り終えるまで、私の塹壕に横たわって休むように』と言いました。午後の三時か四時の間でした。敵の砲弾がわれわれの背後の小さな崖に着弾して爆発し、崖を崩しました。ホンダと私は、瓦礫と石と泥の塊に覆われました。それでも私が埋まったのは首まででしたが、リチャードは完全に埋まっていた。私は彼の足の動くのを感じたが、すぐに動かなくなった。リチャードは、微笑みを絶やさない優しい心根のいい奴だった。君のとてつもなく大きな業績は、われわれすべての高い賞賛と深い愛情とともに、長く記憶されることになるであろう。」 1943年5月以降、第100歩兵大隊や第442歩兵連隊の訓練を受けたキャンプ マッコイは日本兵の捕虜収容所になった。そこには真珠湾攻撃のとき捕虜となった特殊潜航艇の酒巻少尉の他、約50人の日本兵が収容されていた。ちなみにこの施設は、現在はまったく使用されていない。なお、『ウィスコンシン〜第二次世界大戦の内幕〜戦争の囚人キャンプ』(著者 ベティ・コーレイ)によると、ウィスコンシン州内には三十八ヶ所の囚人キャンプがあり、そこの捕虜たちの大部分が農場に入ってエンドウ豆や他の農作物耕作の支援をさせられていた。これら捕虜の多くは居酒屋にも出入りが許され、ときにドイツの捕虜は地元の若い女性たちとデートさえして地元と溶け合っていた。しかしこのようなドイツの捕虜と一般住民の親密さは、ヨーロッパやアジアで戦っていた兵士をもつ家族や他の住民との間に、悶着を引き起こすことにもなったという。 戦後、日本本土空襲の指揮官であったカーチス ルメイ大将は、回想記のなかで次のように述べている。「私は日本の民間人を殺したのではない。日本の軍需工場を破壊していたのだ。日本の都市の民家は全て軍需工場だった。ある家がボルトを作り、隣の家がナットを作り、向かいの家がワッシャを作っていた。木と紙でできた民家の一軒一軒が、全て我々を攻撃する武器の工場になっていたのだ。これをやっつけて何が悪いのか・・。」 私はのちになって、ロバート サトウに、戦後に作った歌を聞けばよかったと思った。しかしそれを思ったとき、彼はすでに、鬼籍に入っていた。 そして忘れてはならない人に、ダニエル イノウエがいる。ハワイの日系二世であった彼は、第100大隊で従軍し、イタリアにおいてドイツ軍と戦った。そのドイツ軍のトーチカ群を攻撃した際、手榴弾を投げ込もうとして右腕を振りかぶったところへ、ドイツ軍兵士が発射した小銃弾がその右腕に命中して切断した。イノウエは足にも負傷したが数多くの栄誉を受けた。アメリカ陸軍での最終階級は陸軍大尉であった。戦後、彼は1963年から50年近くにわたってアメリカ上院議員に在任、2010年、上院仮議長に選出され、亡くなるまでこの職にあった。その彼を顕彰して、それまでのホノルル国際空港が、『ダニエル K イノウエ国際空港』と変更になった。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt="バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>