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レムギザロス大聖堂の宏壮な輪郭が、夜に溶け込むように鎮座していた。
囚人馬車を率いた護送隊が、神都の南外壁聖門から大聖堂前広場への道程を終えて、既に数刻が経過している。 一時は大聖堂を取り囲むように押し寄せた人波も、冬季の訪れを予感させる寒風に吹き散らされて、今では疎らな人影と化していた。
「もう、これは必要ないかな」
エドゥアルトは振り向きざまに頭巾付きの外套を脱ぎ落とす。 シャルロットとファティマ・イスの両者とは違い、教会内に不必要なしがらみがない分、気兼ねなく素顔を晒せるのだろう。 もっとも、容貌・言動・服装と殊更に目立つ青年だけに、隠密を旨とする同行者にとっては迷惑極まりない。
「お二人もそんな暑苦しいものいい加減に脱いだら如何かな?」
エドゥアルトの視線の先には、黒衣の弔問者に身を窶したままのシャルロットとファティマ・イス。 神に賜れた美貌を秘する行為は大罪に等しい、とはエドゥアルトの信条である。
「落ち着きが無い殿方は嫌われますわよ」
ファティマ・イスが、顔を覆った黒布の隙間から呆れたようにひと睨みする。
「これは手厳しい。 それじゃ真面目に質問するが、娘子軍の団長殿は大聖堂で何をしているんだい?」
エドゥアルトがこの救出計画の発案者であるファティマ・イスに尋ねる。
「恐らく……、投獄の前に女神への赦しの機会が与えられているのだと思われますわ。 背教者の烙印を捺されても、ミルフィーナ卿がメナディエルの敬虔な信徒だった事実に偽りはありませんから……」
ファティマ・イスの口調は幾分曖昧に聞こえた。 聖堂神官に囚人を引き渡した護送隊の衛兵たちが、そのまま大聖堂の警備に着任していることから推測したのだろう。 対象を見失うわけにはいかなかったが、迂闊な行動は元の木阿弥となる。 先方の動きが皆無な以上、憶測のみで打つ手は限られていた。
「ほう、その敬虔な信徒とやらになれば、過去に俺が犯した罪も赦し賜れるのかな?」
だが、エドゥアルトは本来の主旨とは別のところに興味を抱いたようである。
「罪の告白を以って得られるものは心の平穏です。 己が犯した罪悪の責を果たすこととは別問題ですわ」
「なるほど、不心得な事態に陥った時点で背教者となり、許して戴けないわけか。 しかし、真偽はどうあれ時間の無駄だな」
エドゥアルトが二重の意味を含ませて吐き捨てる。 まず、立ち往生せざるを得ない現状。 もうひとつは、清廉潔白で名高かったミルフィーナ・ド・グラドユニオンに果たして懺悔する事実が存在するのかどうかである。
「フィーナは無実です。 過ちを悔やむ必要などありません!」
シャルロットがエドゥアルトの心裡を知ってか知らずか、後者を代弁するように語気も荒く割ってはいる。 聖堂前広場に着いて以降、ずっと迷子の幼子のように落ち着き無い様相だったが、二人の会話は聞こえていたらしい。
「どちらにしても、放任主義の女神さまは長年続く教会の腐敗すら見て見ぬ振りだ。 今更、一信徒の懺悔の声を聞き届ける程、お暇ではないだろう」
エドゥアルトは神という存在に一片の価値も認めていない。 その心情は言葉の端々から常に漂っていた。
「神は不可知の裡にのみ存在します。 それが神が神である証明であるのだから。 故に罪を裁くのは女神ではなく、教会から処罰権を与えられたわたくしたち審問官です。 勿論、真理を見抜けぬ人の身でありながら、同じ人間を裁断する愚かさは身に沁みて理解しているつもりですわ」
ファティマ・イスはエドゥアルトを諌めると同時に、悔恨するように朱色の口唇を噛む。 俄かに生じた陰りが女枢機卿の両眼で揺らいでいた。
「ご高説痛み入るが、このまま待っていても事態が好転するとは到底思えないのだが?」
結局のところ、誰よりも現実主義者なのはエドゥアルトであるようだ。 相手の動向が探れない以上、その懐に飛び込む以外に策はない。 シャルロットはミルフィーナの身を案じるが故に、ファティマ・イスはその立場上、共に踏ん切りがつかないのだろう。
「……わかりました。 では、少し協力をお願い出来ますかしら?」
ファティマ・イスが渋々とではあるが、エドゥアルトの意見に同調の意を示す。
「ん、俺にかい?」
「ええ、貴方が適任ですわ」
ファティマ・イスはにこやかに微笑むと、エドゥアルトの背後へと回りこむ。
「美女とそれに準ずる美少女の願いは、どのような無理難題でも断らないのが信条でね。 俺に出来ることならなんなりと」
エドゥアルトは鷹揚に頷くと、芝居がかった口調で従順の意志を示す。
「では、そのまま両腕を後ろに差し出してくださいまし」
「これでいいのかい?―――てっ……ちょ、ちょっと待て!?」
言われるままに差し出したエドゥアルトの両手首が、恐るべき早業で後ろ手に縛りあげられる。
「……俺にこの手の趣味はないのだが」
エドゥアルトの抗議の声にも、ファティマ・イスは素知らぬ顔である。
「それでは参りましょうか」
ファティマ・イスはぽかんと口を開けたまま突っ立ているシャルロットを促すと、自らは拘束したエドゥアルトを押し出すように歩を進める。
「あ、あの……まさか、正面から乗り込むおつもりなのですか?」
我に返ったシャルロットが、前方を歩くファティマ・イスに追いすがる。
「ええ、そのつもりですが、何か問題がおありでしょうか?」
問い返されたシャルロットが言葉に詰っていると、
「そこの者達、止まれ!!」
案の定、制止の声が降りそそぐ。 大股で歩み寄る声の主は、肥えた身体を大きく揺らしながら一行の眼前に立塞がる。 士官階級に支給される教会衣の胸元には准尉の記章が確認できた。
「現在、民間人の大聖堂への参拝は差し止められている」
准士官は遅れてやってきた衛兵を手で制すると、洋梨のように膨らんだ腹を擦りながら喋り続ける。
「巡礼者であるのならば、後日改めて礼拝に参られるがよかろう。 それと、故ウェルティス・フォン=バレル三世聖下の一般弔問は明朝から執り行われる。 参列を希望するならば今日は神都で宿をとり夜明けを待つことだな」
どうやら、黒外衣を纏っているこの一行を、弔問に訪れた巡礼者と判断したようである。
「いいえ、わたくしは大聖堂のなかに用があります」
ファティマ・イスは頭套を僅かに引き上げると、立塞がる准士官の腫れぼった顔を睨めあげる。
「ファティマ枢機卿猊下!?」
黒布の内側に覗く白蝋の麗顔を視認した准士官の表情が一変した。 呼吸するのも億劫そうな肥満体がはじかれた様に姿勢を正す。
「この男、聖下殺害の共謀者と目されています。 事が事だけに、急ぎミルフィーナ・ド・グラドユニオンへの面通しを兼ねた尋問を致さねばなりません」
「で、ですが……、そのような報告は受けておりませんが?」
准士官の声に不審の色が混ざる。 ファティマ・イスの話は寝耳に水で、元老院から与えられた任務と明らかな齟齬をきたす内容であったからである。 しかし、枢機卿位にある人間の要請を無碍に退けることも出来ずに自然と婉曲な返答となる。
「あら、それは困りましたわ。 これは諸般の事情で内密に進められていた事項です。 先刻、元老院の承認も取り付けた上で罷り越したのですが、まだ末端までは連絡が行き届いていなかったようですわね」
ファティマ・イスの口調は明快で淀むところがない。 それは常に二枚舌に油を塗りたくっているエドゥアルトですら感嘆するほどだ。 シャルロットに到っては目を白黒させて混乱気味である。
「これは教会の命運を左右するほどの大事です。 万が一に、取り返しのつかない事態を招けば、責任問題にもなりかねません。 わたくし、あなた方のように職務に忠実なだけが取り得の一信徒を、そのような不遇な立場に追い込みたくありませんことよ」
ファティマ・イスの恐喝紛いの独演は真に迫っていた。 それは語中に含まれる毒気をそれと気づかせぬほどにである。
「し、暫くここでお待ちいただけますか?」
顔面蒼白となったその准士官は、そう言い残すと踵を返そうとする。 詰め所に戻り事の次第を確認するつもりなのだろう。
「待ってください。 ファティマさまのお言葉はわたしが保証します」
シャルロットは目深に被った頭套の縁を両手で掴むと、ファティマ・イスが制止する間もなく脱ぎ落とす。
「聖女さま……」
役職上、事前にシャルロットの素顔を確認済みだった准士官だけが目を見張る。 上官がその場に片膝を落とすと、両脇の衛兵も慌ててそれに倣った。
「どうぞお通りください。 全ては聖女さまの御心のままに」
准士官は畏まったまま大聖堂へと続く道を譲った。
「……」
己が偽りの聖女であることを告げぬまま周囲を謀り続けることに、シャルロットは胸の内に小さな棘が生まれていく感覚を味わっていた。 だが、今は聖女という存在を利用することでしか、大切なものを救う術がない自分の弱さを認めるしかなかった。
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