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2-06【幻影】


初稿:2010.02.07
編集:2023.02.15
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※月ノ章の本編です

2-06【幻影】




 黒、黒、黒……

 視界の全てが漆黒に塗り込められていた。 己が目を開けているのかさえ定かではない。 闇のみが蠢く虚無の世界。
 ミュークの意識は微睡み漂い、深淵に沈む失われた過去と融合する。

 ―――……カチ……カチ

 何かを感じた。

『……音?』

 ―――カチカチカチ

 それは、一定の間隔で音階を刻み続ける。 ミュークは脳内に反響する針音を頼りに、自分の存在を知覚していた。

 ―――……カチカチ

 ……

 ―――……さま

 …………?

「ぅ……ん?」

 微かに身じろぎをして、ひとりの少女が目を覚ました。
 天蓋付きの寝台から身を起こす。 片手で紗幕を払うと、ぼんやりと濁った紅眼だけを動かして、瀟洒な調度品が並ぶ室内を見渡している。

「ミュークお嬢様」

 声に誘われて、少女の虚ろな視線が寝台脇へと落ちる。 そこには、前掛け型の仕事着を纏った下女が傅いていた。 肩口で切り揃えた黒髪と同色の瞳が、逡巡を混在させている。

「お身体の具合は如何ですか?」

 黒髪の下女が主の気色を伺う。
 二十二家に伝わる夜を継承した後遺症で、ここ数日、起き上がることさえ儘ならぬほど疲弊していた少女を気遣っているのだろう。

「案ずるなや……多少、物憂いが、今はそれだけじゃ。 それで用向きはなんじゃ?」

 少女は額に張りついた前髪を気怠げにかき上げる。

「あ、あの……、アルフォンヌさまがお呼びになっておられます」

 下女が怖々と口を開く。 それが主の機嫌を損ねる可能性を承知しているようだ。

「あの女がかや? どうせまた聞くに堪えない戯言の類じゃろう」

 少女は不機嫌そうに鼻を鳴らすと、一糸纏わぬ姿で大理石の露台へと歩み出る。 あの女―――アルフォンヌの所懐は聞くまでもない。 近日、王都で開催される記念祭への参加を強要するつもりだろう。

「ワチキは愚劣で低脳な人間共と馴れ合うつもりは―――いや、まて」

 少女は心裡に蟠る不快感を吐き捨てようとして、ふと思い止まる。 まるで、悪戯を思い付いた子供のように、血色の口唇が吊り上がった。

「ワチキも王国の禄を喰み、特権を享けた身であるからな。 遅れるが王都には必ず参上すると、あの女には伝えておけ」

 紅と蒼、天上に輝く双月を背に、少女の腰まで届く長い栗色の髪が、吹き寄せる風に散り散りに乱されていた。

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『愚かな……』

 ミュークは血を吐くような思いで過去の幻影を見下ろす。
 だが、そんな感慨も仮初めに、再び意識が闇と混濁する。

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 ―――カチカチカチ

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 ―――……カチカチ


「……弱さとは悪じゃ」

 聞き慣れた声に呼び起こされる。
 ミュークの意識が“少女の世界”へと接触した。

「ふん」

 人族最古の王国ヤガ=カルプフェルト。 雷鳴が乱舞する曇天の下、少女は首都リューゲルトの中央街路を大股で歩いていた。 昨夜まで、建国記念祭を祝して華やかに彩られた街角は、今や血臭に満ち、降りしきる雨に叩かれた人血が、赤い血飛沫をあげている。 血反吐と嘔吐物を撒き散らしながら、断末魔の苦悶に喘ぐ人族の群れ。 それは宛ら、地上に再現された地獄絵図とでも例えるべきか。

「使い捨ての玩具程度と概算しておったが、あの男―――ナシュードといったか、思わぬ拾い物だったようじゃな」

 少女の視界に広がる現実は、ただの予定調和でしかない。
 惨状を鑑みるに、ナシュードの計画は滞りなく遂行されているのだろう。

「ふむ、これは赤砂蜥蜴の毒か……」

 其処彼処で朽ち果てた遺体の状態から少女はそう判断した。
 赤砂蜥蜴の毒は即効性の致死毒ではない。 宿主の体内に毒巣を生成後、内側から細胞を枯死させる寄生毒素である。

「大方、都市の水瓶である地下貯水池に、件の毒を投げ込んだのじゃろう。 安易ではあるが、効果的な遣り口じゃな」

 水道橋によって齎された新鮮な水は、無味無臭の毒水となり、地下水路を通じて街中に運ばれた。 少女の明快な頭脳は、ひと目で正鵠に近い所感を導き出す。

「王位を簒奪された前国王の息子として生きるか。 人の世の宿業とは螺旋の如く巡るらしい」

 少女は鮮血が齎す高揚感に突き動かされるように高らかに哄笑を放っていた。

 ・
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 そこで、再びミュークの意識が少女のそれと切り離される。

『ナシュード……』

 その名を忘れる筈も無い。 人族を虫けら同然に卑下していた嘗てのミュークにとって、その男は初めて興味を抱いた人族の固体だった。
 あの日、ミュークはウィズイッド領に広がる古代樹林で、今にも朽ち果てようとしていた人族の青年を拾った。 それは一時の気紛れ。 傷ついた小動物に対して抱く保護欲と同種の感情であった。
 屋敷の下女に男の世話を任せてから数ヵ月後、怪我の癒えた男と対面したミュークは驚きを禁じえなかった。 男の相貌が、前国王オルクと瓜二つであったからだ。
 男の生立ちは奇異なものであった。 両親の記憶は無く、物心がついた頃には、辺境の僧院で半ば幽閉状態で育てられていたらしい。 しかし、最近になって、周辺で不審な出来事が多発して、命の危険を感じた男は、僧院からの逃亡を計ったらしい。 その途中、何者かの襲撃を受け倒れていたところを、こうして保護されたというわけだ。
 全てを鵜呑みにしたわけではなかったが、実に興味深い話であった。 前国王一家は、十二年前の大災禍で焼死したとされている。 だが、当時、五歳であった王太子ナシュードの遺体だけは最期まで発見されることはなかった。 もし存命ならば、丁度、男と同程度の年齢になっていることだろう。

『今にして思えば、あの男の裡に、己と同質の“何か”を見出したからやもしれぬ』

 ミュークはウィズイッド家の再興を図る為の布石として、男を利用しようと画策する。 オルクの息子が存命しているとの噂を王国に流布したのだ。 ミュークは男にナシュードと名乗らせると、失われた過去と栄華を取り戻す機会を与えた。 男が本物のナシュード王子であるかどうかなど、些事に過ぎなかった。 しかし、それは人族のみならず、ウィズイッド家を呑み込む災厄の種を蒔く結果となった。
 ナシュードは手始めに、赤砂蜥蜴の猛毒を用いた大禍を引き起こし、王国に疑心暗鬼の楔を打ち込んだ。 その後、現政権内で虐げられていたオルクの側近だった者達との気脈を通じ、政治的術策を用いて王宮内の反乱分子を纏めあげることに成功する。 更に屍族との共存を図るといった旧態依然たる社会体制に不満を持つ不穏分子を煽り、件の大量虐殺の全てを屍族の犯行と位置づけたのだ。 それは同時に、屍族を国家の中枢に抱く現王政を“仮想敵”として、民意を遠ざける結果となる。 王国の混乱に乗じて、ウィズイッド家をこの地で復古させようとしたミュークの目論見は台無しになるどころか、逆効果となった。 飼い犬に手を噛まれる在り様にミュークは激怒したが、この時、既にナシュードは他者が御せる存在ではなくなっていた。 あの時、ミュークはそれと知らずに、ナシュードの裡に眠る“野心”という名の竜に、天を目指す翼を与えてしまっていたのである。

 三年の時を経て、ナシュードは諸侯や市民の推戴を得る。 そして、屍族を討伐する救国の英雄―――正当なる王位継承者として新政府を確立した。 王権を担うに値する王族の殆どが毒害されていたこともあるが、ナシュードは自身の才覚でその全てを成し遂げていった。
 旧政府の打倒を果たした後、間も無くミュークの母アルフォンヌ・ウィズイッドは処刑された。 それは、人族と屍族の共存を目指した旧穏健派の助命が交換条件であったともされている。 しかし、アルフォンヌの生死に関しては、もうひとつ、真しやかな噂が囁かれていた。 貴女の該博深遠な知識を惜しんだ者達の手により“首人”と化し生き永らえているといったものだ。

 ミュークが事の成り行きを知り得たのは、ヤガ=カルプフェルトを逃げ延びた後であった。

『母上を死地へと追いやったのはワチキじゃ……』

 深い悔恨の念が微睡みに溶けていく。



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