2005/01/16(日)01:16
読書記録─電車男
私はいわゆる恋愛モノはきらいなんです。だいたい恋愛モノが多すぎ!小説だけじゃなく、歌も、テレビも雑誌も、どうしてこう恋愛一色なんだろうか。この「一色感」も何より嫌いですし。
でもね、この電車男だけは一気に読んでしまいました。
全部が会話体ってのが新しいところか。ちょっと思いつくところでは、渡辺淳一の短編がある。二人の医師が救急治療室で治らない患者を何とかしようとしてるシーンを描いたものだったけれど、それと比べるとまず、電車男の会話文はとてつもなく長い。しかも登場人物の数が、文字通り数え切れないくらい多い。
「電車男」以外すべてエキストラなのにみんなセリフを持ってるってのも今までになかった。
一人対無限大の会話体を3時間(トントロ調べ)も読ませる長さに作るのは、どんな作家でも無理なんじゃなかろうか。
小説じゃないんだろう。既存のジャンルにあてはめると・・・ノンフィクションてことになるか。
でも、普通の青年が女と出会い、恋に落ち、その恋を成就させるまでを克明につづる、なんていう馬鹿げたノンフィクションは今まで1冊もなかったはずだ。
しかも全部一人称。通常のノンフィクションはある事実を客観的に記述する第三者の視点で語られるもんだ。
一人称のノンフィクション。
こんな変なモノが出来上がったのは題材が恋愛だからだ、と思う。
恋愛はすべからく主観に基づくべきなんだ。だから僕は恋愛モノを嫌う。
本や歌やドラマになんかする価値はない、恋愛は自分でするもんだと思うから。
恋愛が題材のノンフィクション。
一人称のノンフィクション。
この二者は「変」なんだけど・・・
一人称の恋愛モノ。
これだけは「合ってる」んです。
不思議な読後感。本気で「電車男」を応援して、書き込みを続ける「周りの人」に共感して、笑って、泣いて・・・
ページを閉じて気づく。
僕はこいつらのことを何も知らないんだ。
でも確実なのは、普通の小説の中の人物とは違って、彼らは確実に「存在する」。
個人主義の到達点のように見える。不確かな他者とのつながりに本当に満足している人なんかいない。手ごたえのあるつながりを欲していながらその直接の手段をもたず、それどころかなまじ代替手段─ネット─があるばかりに一時的な満足を得ることができてしまう。
それはやや露骨にたとえるなら、本当のセックスをせず、ただ性欲の一時的解消のために自慰行為にふけったり、風俗にのめりこんだりするのに似ている。そんなことでは根源的な性欲の満足は得られないことはうすうす気づいているのに。
電車男