『武田氏一族の群像」南北朝時代・室町時代の武田氏。 川村一彦
元弘3年(1333年)閏2月には後醍醐天皇が隠岐を脱出し伯耆国船上山(鳥取県琴浦町)で挙兵するが、『太平記』金勝院本に拠れば、武田政義は石見守護代盛信を討ち、船山本に馳せ参じたという。同年4月、幕府方から援軍として送られた足利高氏が丹波篠村(京都府亀岡市)において後醍醐方に通じ、京の六波羅探題を滅ぼす。甲斐源氏では5月25日に千早城攻城参加していた南部武行が敗走する途中で三河矢作宿において足利方の仁木氏・細川氏、「武田十郎」から尋問を受けているが(「南部時長等重陳状」)、この「武田十郎」は政義に比定される可能性が考えられている。鎌倉幕府滅亡後、元弘3年6月に成立した後醍醐天皇の建武の新政においては六波羅に味方した武田信武に代わり甲斐源氏一族の総領となり、建武元年(1334年)10月14日の北山殿における笠懸においては小笠原貞宗(信濃守)、秋山光助(孫四郎)、小笠原長俊(孫四郎)、小笠原宣貞(二郎四郎)らとともに、射主交名として見られる。建武政権における守護補任は不明だが、建武2年に足利尊氏が建武政権から離反して後醍醐方と敵対すると政義も尊氏方に属し建武3年正月には信濃守護小笠原貞宗とともに信濃諏訪郡へ侵攻しており、この時点では甲斐守護となっている。南北朝の内乱における甲斐源氏では安芸守護武田信武が尊氏方に加担しており、甲斐では建武3年5月5日に後醍醐方の初雁五郎が挙兵し大善寺を焼き討ちしているなど反足利勢の活動が見られるが、政義はその後南朝方に転じ、康永2年(1343年)には幕府方の守護代に攻められ討死している。) 5、「南北朝時代・室町時代の武田氏」その後南北朝時代には安芸守護であった信時流武田氏の武田信武が、北朝・足利尊氏に属して各地で戦功をあげ、観応年間には南朝方の政義を排して甲斐国守護となった。信武の子孫の信成・信春も甲斐守護を継承したと見られている。*「武田 信武」(たけだ のぶたけ)は、南北朝時代の武将。武田信政の子信時にはじまる信時流武田氏の生まれ。甲斐源氏嫡流甲斐武田氏の第10代当主。『甲斐国志』によれば、「生山系図」を引用し室を足利尊氏の姪とする。室町幕府の引付衆にも任じられた。父・信宗の後を受けて当主となる。安芸国守護であったが、自身が安芸に直接赴いたかどうかは不明である。元弘2年/正慶元年(1332年)9月、元弘の乱に際して鎌倉幕府方として出陣。そのため、鎌倉幕府滅亡後に発足した後醍醐天皇の建武政権においては討幕軍に従い戦った甲斐国守護・石和政義の後塵を拝していた。建武政権より離反した足利尊氏の軍勢催促に応じ、建武2年に挙兵し、熊谷蓮覚の本拠矢野城(広島市)を攻略している。翌年には上洛し、足利勢と合流し主に畿内を中心として宮方と戦い、また安芸国内の沈静化にも務めている。鎌倉時代後期には、安芸守護として本拠を移した信時流武田氏に代わって甲斐守護は北条得宗家と結びついた庶流石和流武田氏が継承しており、政義は建武政権に加わり甲斐守護を安堵されたが1343年に戦死している。政義の死後には甲斐への介入を強め、貞和2年(1346年)に一蓮寺へ行った寄進をはじめ甲斐国との関係を示す史料が見られる。将軍尊氏と実弟直義の対立から発生した観応の擾乱の最中には甲斐守護への補任を示す史料が見られ、直義追討のため甲斐へ入国したと考えられている。尊氏の信頼が篤く、尊氏が天竜寺を造営しようとした際には信濃守護小笠原氏らと造営に協力している。没年は甲府市の法泉寺の位牌によれば延文4年(1359年)であるが、一蓮寺過去帳や傑翁是英語録によれば康安2年(1362年)であるという。翌年に死去し、跡を子の信成が継承し、安芸守護職は次男の氏信が継承した。和歌に優れた教養人でもあり、『新千載和歌集』には信武の作品が修められている。)信武の子の代で武田氏惣領家は3家に分かれた。甲斐武田家・安芸武田家・京都武田家がそれである。甲斐国は鎌倉府の管轄であったが、室町時代の応永23年(1416)に鎌倉府で関東管領の上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方の足利持氏に反旗を翻し、上杉禅秀の乱が発生する。武田信春の子である武田信満は甲斐守護を継承しており、信満は女婿にあたる禅秀に味方したが、幕府の介入で禅秀は滅亡し、信満は鎌倉府から討伐を受けて自害する。これにより甲斐は守護不在状態となり、甲斐国人である逸見氏が鎌倉公方・足利持氏の支持を得て守護職を求め台頭した。一方、室町幕府では高野山で出家した信満の弟である武田信元を還俗させ、信濃守護・小笠原氏などに助力させ甲斐へ派遣する。 *「武田信元」生年:生没年不詳室町時代前期の武将。甲斐国(山梨県)守護。信春の子。信濃守,陸奥守。応永24(1417)年,上杉禅秀の乱に連座して兄信満が自害すると,高野山に逃れ剃髪して空山と号した。鎌倉府の推す逸見氏の守護補任を好まない幕府により,同年守護に任じられ,甥で信濃国守護の小笠原政康(母は信満・信元の姉)の後押しを受けて、25年甲斐入国を果たす。しかし逸見氏の力はなお強く、守護代に任じた跡部氏の発言力も次第に強まり,その統治は安定しなかった。同28年以前には死去したものとみられ,跡は甥信重の子伊豆千代丸が継いだ。なお信元の名は多くの系図にみえず,現在では信満の弟穴山満春と同一人物とする説が有力である。)