「南部氏一族の群像」葛西大崎一揆。 川村一彦
閉伊郡には宮古の閉伊氏、遠野の阿曽沼氏がいるが、殆ど南部氏の被官的存在であった。さらに南方には強力な葛西氏がいた。岩手郡には厨川工藤氏、滴石戸沢氏も被官的地頭に過ぎなくなっていた。また、津軽・出羽方面にも勢力を張っていたが、津軽安藤氏一族と敵対中であったが、南は岩手郡から、北は外ヶ浜まで、南部氏の勢力圏であり、この情勢は守行の代からと知られる。 1437年(永享9年)、大槌氏が阿曽沼氏を攻めた際、守行は阿曽沼氏を支援して大槌城を攻撃したが、敵の流れ矢に当たって戦死したと言う。 「南部 守行」(なんぶ もりゆき、延文4年/正平14年(1359) ~ 永享9年(1437))は三戸南部氏第13代当主。12代当主の子とされ、初め左馬権守、後に大膳大夫を称したとある。子に第14代当主南部義政、南部政盛、南部助政、久慈威信(大浦則信)。関東管領に従い、陸奧北部を鎮し、秋田合戦及び気仙や遠野方面にも出勤したと伝えられる。老後、剃髪入道して禅高法師と号したという。永享9年(1437年)に79歳で死去。南北朝時代の争乱の後、北朝と合一するにおよんで、奥州では三戸南部氏が抬頭し、足利氏と協調して、陸奥北部の優勢な大名となった。このように奥州の南部一族の内部ではその一党家臣は、何れも三戸南部氏に統率され、その指示に従っていた。応永の頃の四方の情勢は、南方志和郡には、高水寺城に足利氏一族の斯波氏が来往し、公方一族をもって志和御所と称し、その隣接地には、従来のごとく稗貫氏・和賀氏が存在している。閉伊郡には宮古の閉伊氏、遠野の阿曽沼氏がいるが、殆ど南部氏の被官的存在であった。さらに南方には強力な葛西氏がいた。岩手郡には厨川工藤氏、滴石戸沢氏も被官的地頭に過ぎなくなっていた。また、津軽・出羽方面にも勢力を張っていたが、津軽安藤氏一族と敵対中であったが、南は岩手郡から、北は外ヶ浜まで、南部氏の勢力圏であり、この情勢は守行の代からと知られる。 1437年(永享9年)、大槌氏が阿曽沼氏を攻めた際、守行は阿曽沼氏を支援して大槌城を攻撃したが、敵の流れ矢に当たって戦死したと言う。「大槌城」(おおつちじょう)とは、岩手県上閉伊郡大槌町にかつて存在した日本の城(山城)。代々、大槌氏が城主を担当した。室町時代に大槌次郎によって築造されたといわれている。浜崎城とも呼称されていた。規模は東西が700m、南北が100mに及ぶ。1334年から1338年頃、現在の大槌町の背後にある山の上に築造された[2]。砦と4つの郭から構成され、砦は堀で囲まれている。1437年(永享9年)、大槌孫三郎が岳波太郎に呼応して阿曽沼氏を攻めた際、阿曽沼氏を支援した南部氏に大槌城は攻撃を受けた。しかし、城の両側を流れる川など、天然の要害を生かして攻撃を巧妙に防ぎ、遂には流れ矢によって敵将南部守行を討ち取ったという。戦国末期の阿曽沼広郷の代に阿曽沼氏は遠野十二郷を支配する大勢力に成長し、この頃、大槌氏はふたたび阿曽沼氏の支配下に組み込まれ、天正19年(1591)の九戸の乱で大槌孫八郎広信は阿曽沼広長とともに三戸城主南部信直方に参陣した。慶長5年(1600)、鱒沢館主鱒沢広勝による遠野制圧で、阿曽沼広長は遠野を追われ世田米に居住したが、大槌孫八郎は広長支持の姿勢を崩さず、伊達政宗の支援を受けて遠野奪還を目指した広長とともに遠野郷に侵攻した。しかし南部氏の支援を受けた鱒沢氏に敗れ大槌城に退却、大槌城は南部勢に包囲されたが、孫三郎は徹底抗戦の構えを見せ、南部利直の懐柔策で降伏し、自らは伊達領に落ちていった。孫三郎の跡は「稗貫・和賀一揆」で活躍した大槌政貞(広信の子?・一族説あり?)が継いだが、元和3年(1616)南部利直の謀略で自害に追い込まれ大槌氏は改易となった。「和賀・稗貫一揆」(わが・ひえぬきいっき)は、天正18年(1590)、奥州仕置に反発した陸奥国の国人領主が仕置軍(豊臣政権)に対して起こした反乱のことである。慶長の和賀氏の一揆については「岩崎一揆」豊臣秀吉は天正18年、小田原征伐の軍を起こした。関東、奥羽の領主、大名たちは続々と小田原に参陣し秀吉軍に加わったが、小田原に参陣しなかった結城義親、石川昭光、江刺重恒、葛西晴信、大崎義隆、和賀義忠、稗貫広忠(家法・重綱)らは、その後の奥州仕置によって所領没収、城地追放の処分となった。稗貫氏が城地を追放された後の鳥谷ヶ崎城(後の花巻城)には、秀吉の奉行である浅野長政が入城して諸将に号令し、奥州仕置軍は平泉周辺まで進撃して和賀氏ら在地領主の諸城を制圧した。浅野長政の家臣が代官として進駐し新体制への移行が進められ、検地などを行ったあと、郡代、代官を残して奥州仕置軍は引き揚げた。一揆の発生検地に対して不満を抱いた大崎氏、葛西氏、胆沢郡の柏山氏ら没落大名の旧臣、農民らが、奥州仕置軍が帰るや10月に一揆を結んで各地で蜂起し、木村吉清ら秀吉の派遣武将を討ち、勢いを振るった。この時、和賀郡や稗貫郡でもこの騒動(葛西大崎一揆)に協調して和賀義忠、稗貫広忠らが蜂起した。一揆勢は、10月23日和賀氏の元居城であった二子城(現在の岩手県北上市二子町)の浅野長政代官・後藤半七を急襲して攻略し、和賀氏の旧領を奪回した。