「京極氏一族の群像」大坂の陣で生き残り。 川村一彦
大津城は明智光秀の坂本城の後継として秀吉の親族である浅野長政が築いたものである。滋賀郡にある南西近江の要の城であった。また従四位左近衛少将にも任ぜられ、さらには、羽柴の苗字公称も許され、豊臣姓を下賜された。翌年にはさらに従三位参議(宰相)に任ぜられる。この頃の高次の出世は自身の功ではなく、妹や妻の尻の光(閨閥)に拠ったといわれ、高次は陰で蛍大名と囁かれた。しかし近江国支配を円滑に進めたい豊臣家は、浅井家以前に大名羽柴家の草創地である北近江の代々の領主であった京極家の名望を利用する目的があった。大津籠城戦秀吉が没した後の慶長5年(1600)、徳川家康と石田三成の対立が深まっていた。そうした中、会津の上杉景勝を討つべく大坂を発った家康は、翌々日の6月18日に大津城へと立ち寄り、高次は家康から上杉征伐の間のことを頼まれ、弟の京極高知と家臣の山田大炊を家康に伴わせる。しかし三成も家康を討つべく諸大名を誘っており、高次は氏家行広と朽木元綱から三成の西軍へ属することを求められる。これに対して家康の東軍からも、再三の書状により大津城の堅守を頼まれる。高次は大津城の守りが弱いことから一旦は西軍へ属することを決め、大坂へ嫡子の熊麿(京極忠高)を人質として送り、大津城を訪れた三成と面会する。しかし関ヶ原への出陣に備えつつ、西軍の動向を東軍に伝える。9月1日、高次は西軍と共に大津城を発ち、2日には越前国の東野へと至るが、ここから海津を経て船で大津城へと戻る。3日、城に兵を集め兵糧を運び込み、籠城し西軍を抑える旨を、家康の重臣である井伊直政に伝える。高次の行動は即大坂へと伝えられ、城近くの逢坂関にいた毛利元康(西軍総大将毛利輝元の叔父)軍が大津の町へと攻め寄せた。さらに立花宗茂軍がこれに加わる。7日、西軍の寄せ手は1万5000とも3万7000とも4万とも言われる数に増し、大砲が打ち込まれる。11日夜、家臣の山田大炊、赤尾伊豆守らは寄せ手に夜襲をかけ戦果を得るが、12日に堀は埋められ、13日には総攻撃を受け、高次自身も応戦するが2ヶ所に槍傷を受け、三の丸、続いて二の丸が落ちる。14日、和平の使者が送られるが高次は拒否した。しかし、北政所の使者・孝蔵主を受け、老臣の黒田伊予の説得もあり、高野山の木食応其の仲介のもと夜になって降伏した。15日朝には城に近い園城寺で剃髪し、70人程の兵と共に宇治へと去り、その後高野山に入った。一方、開城したその日に関ヶ原の戦いが起こり、正午過ぎには西軍が総崩れとなっていた。結局、高次の篭城により足止めされた毛利元康および立花宗茂らの軍勢は移動に時間がかかったため、関ヶ原に参陣することができなかった。若狭国主関ヶ原の戦いの後、徳川家康は西軍の軍勢を大津に引きつけて関ヶ原へ向かわせなかった高次の功績を高く評価した。高次は井伊直政からの使者を受け、早々に高野山を下りるように伝えられる。初め高次はこれを断ったが、更に山岡道阿弥を送られ、それに弟の高知も加わった説得を受けて下山した。高次は大坂で家康に会い、若狭一国8万5000石へ加増転封され、後瀬山城に入る。慶長5年10月に小浜に入り、翌年には近江国高島郡のうち7100石が加増される。大坂の陣を控えた徳川家康の命により、高次は新たに日本海と北川と南川に囲まれた雲浜に、二条城に似た小浜城を築き始めた。また、後瀬山の麓に残った城跡と武家の屋敷を町屋として街路を整備し、新たな街区を設けるなど、小浜の城下町を整備した。家康からの信任も厚かったようで、以下の書状を受けている。慶長14年(1606年)5月に47歳歳で没し、長男・忠高が跡を継いだ。高野山奥の院には大津城で討死した22名の家臣を供養する石碑が、慶長5年9月13日の日付と共に残っている。 「京極 忠高」(きょうごく ただたか)は、江戸時代前期の大名。若狭小浜藩第2代藩主、出雲松江藩主。高次流京極家2代。初代藩主京極高次の長男。母は側室。正室は江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の四女・初姫(高次正室・常高院の養女)高次の庶長子として生まれる。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際、父の高次は西軍につき忠高を人質として大坂城へ送ったが、東軍へ寝返り大津城に立てこもった(大津城の戦い)。慶長14年(1609)、高次が死去したため、若狭小浜9万2,000石(若狭一国)を相続した。慶長19年(1614年)の大坂の陣では徳川方として参戦し、冬の陣での講和は、義母の常高院を仲介として忠高の陣において行われた。