歴史の回想のブログ川村一彦

2023/08/01(火)06:28

「応仁の乱の群像」 大内政弘の加勢

応仁の乱の群像(46)

   細川勝元と赤松政則はそれぞれの家臣と再会したことを喜んだが、西軍は三宝院と内裏の占拠などで下京を制圧、東軍は花の御所・相国寺・細川勝元邸など残る上京の拠点に追い詰められていった。西軍はさらに勢いに乗り、翌3日から上京に攻めかかった(相国寺の戦い(しょうこくじのたたかい)は、応仁元年(1467年)10月3日から4日にかけて現在の京都府京都市上京区で起こった戦い。応仁の乱中で最も激しかった戦闘とされていて、この戦いの後両軍は京都での戦闘は控え、代わりに戦場を山城周辺に移していった。 l  大内政弘の加勢によって勢いをつけた西軍は、9月の東岩倉の戦いで東軍を破り京都北東に追い込んだ。 l  10月3日に西軍は更なる攻勢に出て東軍が構える花の御所・相国寺・内裏に進軍を開始、西軍の畠山義就・大内政弘・一色義直らの軍勢が朝倉孝景らと合流して、相国寺及び周辺の東軍に攻めかかった。相国寺には細川勝元の猶子細川勝之と勝元の家臣安富元綱・武田信賢らが守り、南方の烏丸殿・内裏・三条殿には京極持清らが構えていた。 l  畠山義就と朝倉孝景の軍はまず相国寺を攻撃、激戦の末武田軍を退却させて相国寺を焼き討ち(西軍に内通した相国寺の僧が放火したとも)、烏丸殿・内裏・三条殿の兵も逃亡して相国寺を制圧した。花の御所は相国寺のすぐ西側にあったためこちらも西軍に攻撃されたが、半分焼け落ちながらも陥落を免れた。東軍側は一旦退却したが、畠山政長らの援軍を得て反撃に転じ、相国寺跡地に陣取っていた一色軍と六角高頼軍を急襲して打ち破り相国寺を奪回した。しかし、再度孝景が率いる西軍の軍勢が相国寺の占拠に成功し、一旦休戦となった。 l  西軍は相国寺の奪取により東軍を追い詰めたが、双方に多大な死傷者を出す消耗戦となった。消耗が激しかったこの戦い以降、両軍の間での衝突が散発的になり、やがて戦争は京都から地方へと波及、相手陣営の有力武将の調略へと戦略が切り替わっていった。 l  相国寺の戦い u  相国寺の戦い(しょうこくじのたたかい)は、応仁元年(1467年)10月3日から4日にかけて現在の京都府京都市上京区で起こった戦い。応仁の乱中で最も激しかった戦闘とされていて、この戦いの後両軍は京都での戦闘は控え、代わりに戦場を山城周辺に移していった。 u  大内政弘の加勢によって勢いをつけた西軍は、9月の東岩倉の戦いで東軍を破り京都北東に追い込んだ。 u  10月3日に西軍は更なる攻勢に出て東軍が構える花の御所・相国寺・内裏に進軍を開始、西軍の畠山義就・大内政弘・一色義直らの軍勢が朝倉孝景らと合流して、相国寺及び周辺の東軍に攻めかかった。相国寺には細川勝元の猶子細川勝之と勝元の家臣安富元綱・武田信賢らが守り、南方の烏丸殿・内裏・三条殿には京極持清らが構えていた。 u  畠山義就と朝倉孝景の軍はまず相国寺を攻撃、激戦の末武田軍を退却させて相国寺を焼き討ち(西軍に内通した相国寺の僧が放火したとも)、烏丸殿・内裏・三条殿の兵も逃亡して相国寺を制圧した。花の御所は相国寺のすぐ西側にあったためこちらも西軍に攻撃されたが、半分焼け落ちながらも陥落を免れた。東軍側は一旦退却したが、畠山政長らの援軍を得て反撃に転じ、相国寺跡地に陣取っていた一色軍と六角高頼軍を急襲して打ち破り相国寺を奪回した。しかし、再度孝景が率いる西軍の軍勢が相国寺の占拠に成功し、一旦休戦となった。 u  西軍は相国寺の奪取により東軍を追い詰めたが、双方に多大な死傷者を出す消耗戦となった。消耗が激しかったこの戦い以降、両軍の間での衝突が散発的になり、やがて戦争は京都から地方へと波及、相手陣営の有力武将の調略へと戦略が切り替わっていった。   朝廷においては10月3日に後花園法皇が興福寺に山名宗全の追討を命じる治罰院宣を発したほか、12月5日(12月31日)に正親町三条公躬(公治)・葉室教忠・光忠父子・阿野季遠・清水谷実久ら西軍派とされた公家の官爵剥奪が決定された。彼らは富子の実家である日野家と対立関係にあった三条家の一族や縁者が多く、義視を支持していた公家達であった。 応仁2年(1468年)3月17日に北大路烏丸で大内政弘と毛利豊元・小早川煕平が交戦、3月21日には、稲荷山の稲荷社に陣を張って山名側の後方を撹乱・攻撃していた細川方の骨皮道賢が攻撃されて討死し、稲荷社が全焼した。 5月2日に細川成之が斯波義廉邸を攻めたり、5月8日に勝元が宗全の陣を、8月1日に勝元の兵が相国寺跡の義就の陣を攻めていたが、戦闘は次第に洛外に移り、山科、鳥羽、嵯峨で両軍が交戦した。

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