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歴史の回想のブログ川村一彦

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2023年08月01日
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カテゴリ:応仁の乱の群像







管領の斯波義廉は西軍についていたものの、将軍・義政から直ちに解任されなかった。このため、将軍が主宰する
御前沙汰など、幕府の政務も管領不在のまま行われていた。


 だが、応仁2年(1468年)、義廉が幕府と敵対していた関東の古河公方足利成氏に和睦を提案、宗全と義就の連名の書状を送った。この理由については、義廉は幕府の関東政策の一環として斯波氏の当主に据えられたため、成氏と幕府の和睦という成果を挙げて家督と管領職の確保を狙ったと推定される。


しかし、義政は独断で和睦を図った義廉を許さず、10に義廉を解任して勝元を管領に任命、義廉の家督と3ヶ国守護職も取り上げられ、松王丸に替えられた。書状が出された月は2月から3月と推定され、相国寺の戦いの後に西軍有利の状況で義廉が動いたとされる[30]


足利義視の西軍入り


応仁2年(1468年)22、しばらく伊勢国に滞在していた足利義視は細川勝元(管領)や足利義政に説得されて東軍に帰陣した。帰京した義視は足利義尚派の日野勝光の排斥を義政に訴えたが、受け入れられなかった。さらに義政は閏1016には文正の政変で義視と対立した伊勢貞親を政務に復帰させ、1110には義視と親しい有馬元家を殺害するなどはっきりと義尚擁立に動き出した。勝元も義視擁立には動かず、かえって出家をすすめた。こうして義視は再度出奔して比叡山に登った。11231219)、西軍は比叡山に使いを出して義視を迎え入れて新将軍に奉った。正親町三条公躬、葉室教忠らも西幕府に祗候し、幕府の体裁が整った。以降、西幕府では有力守護による合議制の下、義視が発給する御内書によって命令が行われ、独自に官位の授与も行うようになった。


一方で幕府では日野勝光、伊勢貞親ら義政側近の勢力が拡大し、文正の政変以前の状態に戻りつつあった。勝元には義視をあえて西軍に送り込むことで、親宗全派であった富子を幕府内で孤立させる目論見があったとも推測されている。以降勝元は西軍との戦いをほとんど行わず、対大内氏との戦闘に傾注してい[31]


 


 


14、「日野富子」


   日野 富子(ひの とみこ、永享12年(1440明応5年201496 30))は、室町時代後期から戦国時代前期の女性。室町幕府8代将軍足利義政正室。父は蔵人右少弁・日野重政、母は従三位・北小路苗子(北小路禅尼)。兄弟に勝光(兄)、永俊(11代将軍足利義澄の義父)、資治日野兼興の養子)、妹に良子足利義視室)。9代将軍・足利義尚の母。従一位


   生誕と結婚


   山城国京都府)の生まれ。室町幕府足利将軍家と縁戚関係を持っていた日野家の出身で、義政の生母・日野重子は富子の大叔母にあたる。富子も康正元年(145527に16歳で義政の正室となり、長禄3年(1459には第1子が生まれるが、その日のうちに夭折。それを義政の乳母の今参局が呪いを掛けたせいだとし、彼女を琵琶湖沖島に流罪とし(本人は途中で自刃)、義政の側室4人も追放した。


   応仁の乱


   富子は寛正3年(1462)と翌4年(1463)に相次いで女子を産むが、男子を産むことは出来なかった。寛正5年(464)に義政は実弟で仏門に入っていた義尋を還俗させ、名を足利義視と改めさせ細川勝元を後見に将軍後継者とした。


   しかし翌寛正6年(1465)に富子は義尚を出産、富子は溺愛する義尚の擁立を目論み、義尚の後見である山名宗全や実家である日野家が義視と対立した。これに幕府の実力者である勝元と宗全の対立や斯波氏畠山氏の家督相続問題などが複雑に絡み合い、応仁の乱が勃発した。


   富子は戦いの全時期を通じて細川勝元を総大将とする東軍側にいたが、東西両軍の大名に多額の金銭を貸し付け[注釈 1]、米の投機も行うなどして一時は現在の価値にして60億円もの資産があったといわれる。


   文明3年(1471)頃には室町亭京都市上京区)に避難していた後土御門天皇との密通の噂が広まった。当時後土御門天皇が富子の侍女に手を付けていたことによるものだが、そんな噂が流れるほど義政と富子の間は冷却化していた。


   文明5年(1473)に山名宗全、細川勝元が死去し、義政が隠居して義尚が元服して9代将軍に就任すると、兄の日野勝光が新将軍代となった。義政は完全に政治への興味を失い、文明7年(1475)には小河御所上京区堀川)を建設して1人で移った。文明8年(1476)に勝光が没すると、富子が実質的な幕府の指導者となった。


   「御台一天御計い」するといわれた富子に八朔の進物を届ける人々の行列は1、2町にも達した。11月に室町亭が焼失すると義政が住む小河御所へ移る。しかし、文明13年(1481)になって義政は長谷聖護院の山荘に移ってしまった(その後長らく義政とは別居)。


   文明9年(1477)にようやく西軍の軍は引き上げ、京都における戦乱は終止符を打ったが、この翌日、富子は伝奏広橋兼顕に「土御門内裏が炎上しなかったのは、西軍の大内政弘と申し合わせていたから」という趣旨の発言をしている。






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最終更新日  2023年08月01日 06時54分23秒
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