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「世間の価値観」と一緒ぐらい自分にとってやっかいなものは「比較する心」でした。 人と比較して、自分はおとっていると劣等感を持ったり、自分はちょっと勝っていると 優越感を持ったりする心です。これは自分の中に小さい頃からあって、すごく馴染みの あるものでした。 〇〇ちゃんは、鉄棒で逆上がりができないのに、自分はできるとか、〇〇くんより九九を 覚えるのが早いとか、もう少し年齢があがると、テストの点数とか、ピアノのうまいへた とか、容姿とか・・・そうして、比較することによって満足感を持ち、まるで自分を認め られたかのように思い(すごいねえ、とかうらやましいとか言われ)、又頑張ろうという 原動力になったり、反対に人より出来ないことがあると、もっと頑張って同じように出来 るようになりたい(出来ないとあきらめることもありましたけど)と思ったりして、まん ざら悪いことでもないかなと思っていました。息子が不登校になるまでは・・・ 多分、息子が不登校になるまでは、「比較する心」は自分の中では「競争心」と同じよう な扱いになっていたと思います。 でも、息子が不登校になって全く動けなくなった時、「比較する心」は自分の中で、どろ どろした「嫉妬心」や「恨みの心」に変わっていったのでした。 「何故他の人の子供は普通に学校へ行っているのに、自分の子供だけ(だけではないので ですが、最初はそう思っていたのです)行けないんだろう」「一生懸命育ててきたのに、 どうして自分の子が苦しまなければならないんだろう」「何も悪いことはしてないと思う のに、何故こんな試練を与えられなければいけないんだろう」等々。 そして、自分の中にこんなどろどろした気持ちがあることを、無理に封印していました。 こんな気持ちを出してはいけないって。辛いとか思っちゃいけないって。これも自分の 大切な感情なんだって、その時はどうしても思えなかったです。 世間一般の普通が普通で、そこから違った生き方をすることを認められなかったのだと思 います。世間一般の普通と比較して、自分一人かわいそうって思っていたのかな。世間の 人々と比較した上での「幸せ」いわゆる狭い範囲での「幸せ」だけが、自分の「幸せ」と 思っていたのでした。幸せの形は一人一人違うのに・・・ 人(世間)と比較するのではなく、自分の気持ちの中で、昨日より今日、今日より明日と 変化することを比較しよう、と思えるようになるまで、とても長くかかりました。 「比較する心」は大分影が薄くなってきたけど、まだ自分の中には確かに存在していま す。でも、今はそれでもいいと思えるようになりました。自分の気持ちの中だけなら。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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