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カテゴリ:私のこと
ちょっと自分のことを書きたくなりました(子どものことから少し離れて)
で、いきなり壮大な題をつけてしまって、いったい何から書けばいいのかしらっていう 感じなのですが。。。 そもそも私が自分のアイデンティティに?と疑問を持ち始めたのは、息子の不登校以来 なんです。それがなければずっと曖昧なまま一生を終えていたかもしれません。 アイデンティティ=自己同一性 と辞書等に書かれていますが、私自身の捉え方としては 「自分って何者?」という方がしっくりくるかな(この考え方がいいかどうかは?ですが) そして、そのことをあまり深く考えもせず(若い頃に少し考えた時もあったけど)漫然と 日々を送ってきたように思います。それともどこかでは向き合うようになってたのかしら。 以前にコメントのお返事にも書いたことがあるのですが、私は自分のアイデンティティは いまだに作られている途中だと思っています。 ずっとずっと昔のお話です。私が30歳前後の頃かな。義母と初めて口喧嘩らしきことを したことがあります。自分の親とは何回も喧嘩したことがあるけど、義父母に対しては 「いい嫁にみられたい」という思いが強かったのでしょうね。自分を出来るだけ抑えて 何でも「ハイハイ」と聞いていたような(嫌。。。違うかも。。。笑)とにかくそれまでは 喧嘩にはならなかったのです。その時は自分の思うことをそのまま言ってしまい、それが 義母の癇に障ったのか「あなたいったい何歳と思ってる?」みたいなことを言われました。 今でもはっきりと覚えてる(しつこく)内容は忘れたけどね~ 自分では自分ってもうある程度の大人だと、その時は思っていたんですよね。 だから大人の余裕で嫌と思うことも流せるって(考えると流す必要もなかったのでしょう が)。でも年齢で言われたのはこたえたかな?まあ、それが義母の基準なんでしょうね。 私は「普通はこうよ」って言われたように感じてしまいましたね。昔の感覚の30歳は 結構な大人なのかしらね~ それまで多分無理していたんだと思います。「嫌なことを嫌」って言えなかったんですよね 「こうあらねば」の常識に縛られ過ぎて、自分が何が嫌かもわからなかったのかもしれない その時に感じたことは、大人になると言うことは単に年齢ではなく、自分の意見をきちんと 持っていて、「~したい」「~したくない」とお相手に伝えられることなんだなあって。 でもせっかくそう気づいたのに、つい面倒になることを避けてそうせずに生きてきた部分も 多かったなあって思います(反省) ストレートに出してしまうのじゃなくて、出していい時とそうでない時の見極めをすること をし過ぎるあまり、出せずにそのまんまになっていたところもありますね。 好きなことがわからないと、嫌なこともわからないですよね。 だから自分の好きなことや楽しいことを、誰に押し付けられたわけでもなく、持っている ということも大人になるってことなのかしら。自分で自分を癒せるというか。。。 大人になることがアイデンティティの確立と=ではないにしても似通った部分はあるのかな そう考えてくると、私のアイデンティティはまだ確立していないような気がします。 まだ自分の楽しいことや好きなことが、きちんとは見つかっていないように感じるから。 少しずつ見つけつつはあるのですけどね~そして自分がこれからどう生きようかということ も、ぼんやりとですが見えてきたような気もします。遅いのかもしれないけど。 まだまだこれから色々と経験して、死ぬまでには確立するのかしらね~アハハハ。。。 そして女の人にとって、子どもを持つということは、ものすごく大きな転機になると感じ ます。それまでの自分のアイデンティティらしきものの大半が、母というアイデンティティ に変わってしまうように思いますから。 子どもを持つまでは私はもっと自分を大事にして、自分の好きなものを好きと言える人間 だったのだと思います(多分ですが)でも母というアイデンティティの中にとりこまれた 途端、それまでの自分がなくなってしまったんじゃないかなあ。全部ではないですけどね。 よい母であろうとし過ぎたんじゃないかしら?それが子どもへの重たい愛情になっていった のにも気づかずにね。でも、今気づけて本当によかったと思います。 自分の中の母である比率は、自分の気持ちの持ち方次第で変えられますものね。軽くね。 私の中の「私比率」(←自分で作った造語です 笑)を高めたいなって、今思っています。 これからどんな自分が現れるのかしら~少し楽しみでもあり少し怖くもあるのです 文とは関係ないけど、お庭で採れたいただきもののびわ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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