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2019年12月15日
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カテゴリ:音楽
その建物の前に立った瞬間、同じ場所で40年近く前に起きたショッキングな出来事の記憶が鮮明に蘇ってきました。

あれは確か1980年の秋のことだったでしょうか。台風の影響(?)で荒れた天気の中、都心からいくつも電車を乗り継ぎ、初めて訪ねる神奈川県民ホールへと、最寄り駅の関内駅を降りてからも雨の中で道に迷いながらようやくの思いでたどり着いてみると、間もなくコンサート開演という時間なのになぜか人影もまばら。ホール入り口に近づいて見ると、本日のコンサートが中止になった旨を告げる小さな張り紙が1枚あるだけ…「え〜っ!!!??? そんなアホなぁ…」。ますますひどくなる風雨の中、やり場のない憤懣と落胆を胸に、濡れねずみになりながら来た道を引き返す羽目に。車中の暇つぶしにと抱えていたジュリアン・グリーン全集の1冊も雨水で装丁が傷んでしまい、まさに泣き面にハチの有様でした。




亭主は先週後半、とある国際シンポジウムに参加するため、横浜は山下公園近くの「横浜シンポジア」(実は横浜商工会議所ビルの中の会議場)とその周辺に日参することに。その2日目、聴きたい講演の会場が隣接するもう一つの建物と分かり、商工会議所ビルを出たところでふと頭を上げたところ、目に飛び込んできたのが神奈川県民ホールでした。

このホール、東京の南西部に住んでいるクラシックファンには比較的お馴染みの場所だと思われますが、当時都内在住(西武池袋線沿線)だった亭主にとっても、都心に数あるホールに比べれば随分と遠隔地でした。そんなところへとわざわざ足を運んだ理由は、かのミケランジェリの来日公演で唯一チケットが手に入ったのがこの会場での演奏会だったからです。もちろん、ミケランジェリがキャンセル魔であることは夙に有名で、この来日公演でも既に前科を作っていたようですが、直前のNHKホールでの公演が開催されたこともあり、亭主も油断していたのでしょう。かくして、このホールは最も期待を膨らませて赴いた演奏会のキャンセルを当日会場で告げられる、というショックとともに亭主の脳髄に深く刻まれたというわけです(笑)。

その後、亭主の活動地域が徐々に千葉・茨城方面へとシフトして行くにつれて、横浜という街自体が全く縁遠い場所になり、特に県民ホールは再び訪れる機会がないまま幾星霜もの歳月が流れることに。にも関わらず、ホール正面に立つといまだに当時のショックをまざまざと思い出す自分に驚かされるとともに、人間の記憶の不思議さを再認識させられる経験でもありました。

亭主に取りいまだ鮮明なミケランジェリの記憶として、もう一つ挙げられるのが上記より5年ほど前、まだ高校生だった頃に彼の演奏によるドビュッシーの「映像I,II集、子供の領分」を収めたレコードを初めて耳にした瞬間のことです。ちょうどその頃、この作曲家のピアノ作品に強く惹かれ始めていた亭主は、開業間もない自宅近所の小さなレコード専門店で偶然このLPを見つけました。この店では珍しく購入前の試聴ができるとあって、自宅より上等そうなオーディオ装置でかけてもらうことに。ヘッドホン越しに静寂の中から「水の反映」演奏が聞こえ始めた瞬間、その透明で色彩感あふれる響きに圧倒され、完全にイカれてしまったのが昨日のことのように思い出されます。(もちろん即座にお買い上げです。)




その後しばらくはこの演奏に夢中になっていましたが、キズや埃でLPの音質が劣化したため、あの響きをもう一度としばらくして再販されたCDを購入して聴いてみたところ、昔の印象とまるで違っていて呆然としたことも思い出されます。

亭主が思うに、ミケランジェリはグレン・グールドなどと同じく、「レコードの時代」におけるコンサートピアニストのジレンマと格闘した音楽家だったという気がします。このブログを書くにあたり、久々に件のLPジャケットを開いてみると、あの吉田秀和翁が、ライナーノートの中でいきなりこの問題に言及しているのを見て思わずニヤリです。演奏に完璧を求め、しばしばコンサートをキャンセルするミケランジェリがレコード嫌いでもあったことに触れ、常に完璧な演奏を繰り返すコンサートは、結局そのような演奏を収めたレコードを繰り返し再生するのと同じで退屈になる、と書いています。完璧な演奏の録音が、完璧な生演奏と矛盾する、という恐るべき罠。これはまさにグールドが「コンサートドロップアウト」した理由そのものです。

最近は、クラシック音楽界でも古楽が浸透するにつれて演奏行為の機会性、コンサートの「一期一会」的な性格が重要視され始め、クラシシズムが求める「完全無欠な演奏」などというものは話題にもならなくなったようです。亭主が時間を置いてCDで聴き直したミケランジェリの演奏が全く違って聞こえたという事実は、「録音」ですら聴く側の人生経験とともに「変化」して行くことを意味しています。そもそも万人が常に認める完璧な演奏など、プラトンのイデアにも似てこの世には存在しないものでしょう。

亭主はだいぶ前に、「レコード(CD)を再生すのは開封後1回きりで、それをあたかも一度しか聴くことができないコンサートでの演奏のように拝聴する」という流儀を披露された音楽評論家の記事をどこかで読んだ覚えがあります。今にして思えば、これぞ「正しい音盤の鑑賞法」なのかもしれません。





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最終更新日  2019年12月15日 22時24分59秒
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