2024/10/11(金)07:47
現代音楽と対位法
亭主はこのところ、週末になるとバッハの鍵盤作品(平均律クラヴィア曲集など)をハープシコードの譜面に載せ、適当にパッと開いたページの曲から始めて数時間も一心不乱に弾いていることが多くなりました。特に、昔は途中で放り出すことの多かったフーガを終わりまで弾き通すことができるようになり、これまでになくハマっている感じです。
その理由を考えるに、この十数年というもの毎週末ほぼ欠かさずに楽器に向かい、次から次に色々な音楽家の作品を譜面台に置いて弾いているうちに、楽器がからだの一部になったような感覚になったことが挙げられます(ようやく初心者の域を脱したということか?)。これは車の運転などとも似ていて、毎日通勤に車を使う亭主の車幅感覚はほぼ1cmぐらいの精度があります。今では譜面に首っ引き状態で、ほぼ手元を見ることなく音を出すことができるので、注意を譜面に集中することができ、あの面倒なフーガの譜読みも何とかなるというわけです。
あともうひとつ、譜読みで遅れや立ち止まりの原因になる臨時記号についても、一人の作曲家の作品を長く弾いていると、その人固有の音楽のクセのようなものがわかるので、あらかじめ予想できるようになる点が挙げられます。(これも車の運転とよく似ていて、運転が上手な人は常に数秒先の道路状況を意識しながら半ば無意識にハンドルやブレーキを操作しています。)ひね者だった(?)バッハは、若い頃から不協和音程の経過音を使うのが大好きだったようで、終止音にたどり着くまで何調だかわからないようなフレーズも頻出しますが、これも慣れてくると「あ〜また来た!」と半ば音程の進行が予想できるようになりました。
ところで、先週のニューヨーク・フィルの演奏会のテレビ放送も含め、近・現代のクラシック系音楽を耳にした折に、亭主が拒否反応を起こさなかった作品はどうやら対位法的でポリフォニック(多声的)な音楽が多い、ということに気がつきました。
西洋音楽史によると、多声的な音楽は中世以降の単旋律聖歌(モノフォニックな音楽)に別の旋律(しかも歌詞も全く別の俗謡だったりする)を重ねて歌うことが広まることで成立したと考えられているようです。同じようなことは世俗音楽でもあったようで、「同時クォドリベット」などが挙げられます(バッハの「ゴルトベルク変奏曲」最後の第30変奏がその例)。
ちなみに、これで思い出すのが現代の「パートナーソング」。2つの曲が同じ和声進行を背景にしていて、同時に歌ったり演奏したりすることができる組み合わせを指します。有名な例として童謡の「どんぐりころころ」と「夕焼け小焼け」の組み合わせを最近のラジオで耳にしました。(その昔、学校のバス旅行で移動中にバスガイドさんが退屈しのぎの余興として生徒に歌わせていたような…)
いずれにせよ、和声の元は多声音楽であり、それが「声部の結節点」である和音やその進行を意識させ、バロック期に調性音楽が確立するとともにそれが音楽を支配するようになったと見ることができます。ヴィヴァルディの音楽はまさに和声進行のみで出来上がっていると言っても過言ではないでしょう。ラモーがあの「和声論」を世に問うたのもこの頃。(ヴィヴァルディのL'estro Armonicoは「調和の霊感」ではなく「和声の霊感」とすべき、という亭主の持論もこれから出ています。)
そして19世紀以降、和声進行の上で旋律を際立たせたロマン派音楽(ホモフォニックな音楽)が同世紀末にかけて爛熟します。この種の音楽はクラシック音楽以外では今でも全盛で、日常的に耳にする音楽のほとんどがこれに属すると言ってよいでしょう。
亭主はこれまで、バッハのフーガは多声音楽の典型と思っていましたが、声部の動きが旋律的な響きを持つという意味ではホモフォニックな感じもします。現代においてもバッハの人気が衰えない理由の一つは、このような対位法とホモフォニックな音楽の融合にあるのかも。
しかるに、20世紀になってこのよううな音楽を全否定し、リズムもなく不協和音だらけ(と言うよりは「雑音」のような)音楽がクラシック系音楽における「現代音楽」として喧伝されるようになります。
ただし、現代音楽=雑音的音楽といった図式化は大いなる偏見でもあり、リズムや和声を捨てることなく新しい響きを追求した音楽家がいたことも確か。例えばミニマリストと呼ばれる人たちなどは、音の動きを最小限に抑え、パターン化された音型を反復させる音楽=ミニマル・ミュージックを発案しました。最近このブログにも登場した久石譲氏も自身をミニマリストだと称するなど、こんにちの音楽でも大きな潮流のひとつとなっています。
さて、このような歴史を眺めながら亭主が考えるに、20世紀以降に西洋クラシック音楽が目指していたのは「陳腐化した和声進行のくびきを脱すること」です。ミニマル・ミュージックは「音の動きを抑える」ことでこれを実現しましたが、やはりその性格上、長足な音楽を作るには不向きであるように思われます。その点で、亭主が先週テレビを見ながら気づいたのが、対位法的なポリフォニー音楽の存在です。
譜面の視覚的な印象を基に言えば、一つの旋律に沿った和音の垂直的な積み重ねと進行を重視する19世紀以前の音楽に対し、対等な複数の声部の横方向の動きを重視する音楽では、ところどころに現れる不協和音も大してストレスにならず、返ってスパイスのようないい感じを出してくれます。数多くの声部が曲の進行とともにじわじわと作り出す響きは、壮大な時間の織物のようなもので、ある種無限の可能性を秘めているようにも見えます。
この文脈で亭主がすぐに思いつくのが、ギヨーム・ド・マショー。オルランド・コンソートが歌う彼の「ドリームス・イン・ザ・プレジャーガーデン」を初めて聴いたときの衝撃と感動はいまだに色褪せない記憶。14世紀の音楽家であるマショーが調性音楽も和声進行もない世界で作り出した多声音楽は、亭主のような耳のスレた人間にも極めて斬新に響き、神秘的とでも言うべき魅力に満ちています。
マショーのような例こそは、対位法的な音楽に宿る無限の可能性や、来るべき音楽の未来を暗示しているように思われるのですが、これは亭主だけの妄想でしょうか…