未音亭日記

2024/02/12(月)21:58

小澤征爾さん逝く

音楽(658)

先週の終わりに指揮者・小澤征爾さんの訃報が流れて以来、国内外で数多の一般向けメディアがそれを速報・追悼記事を掲げるとともに、関係者による様々な思い出・エピソードを紹介しています。 亭主もクラシック音楽ファンの一人として、彼の活躍は自分の高校・大学生時代(1970—80年代)から夙に知っていましたが、当時は彼が「日本人指揮者」ということはあまり意識せず、国内外の著名な指揮者の一人、という認識しかありませんでした。というのも、その頃までには国外で活躍する日本人は分野を問わずそれほど珍しいものではなくなるとともに、むしろ外国に行って研鑽を積むことが(若手にとっては)当たり前という感覚があったからでした。 当時何かの記事で、彼がN響にボイコットされて国外に活動の場を移し、ボストン交響楽団の指揮者(1973年〜)として大活躍しているという有名な逸話を知り、「あ〜やっぱり日本の音楽界は閉鎖的なムラ社会で上下関係、長幼の序が支配する世界、出る釘は徹底的に打たれる世界なんだ…」とガッカリするとともに、そんな世界に足を踏み入れないでよかった、と胸を撫で下ろしたものでした。(同じことが医学界にも当てはまりました。) 似たような話として思い出すのが、分子生物学の利根川進さんの例です。彼は1939年生まれというので小澤さんより4歳年下ですが、まぁ同じ世代と言ってよく、京大の大学院に入って早々に中退し(1963年)、日本を飛び出して米国に渡ります。(小澤さんが貨物船でフランスに旅立ったのが1959年、これも同じ頃、同じ年齢での逐電です。)その後の活躍については誰もが知るところで、1980年代にノーベル賞を単独で受賞するという快挙を成し遂げています。 もちろん、外国に出かけて行ったからといって、誰もが思い通りにキャリアを築くことができるとは限らないことは言うまでもなく、行った先でのポストや人間関係、環境など様々な偶然に左右されます。が、若者にとっては、そのような「運試し」ができるというだけでも、日本の縦社会の最下層で展望もなく燻っているよりは遥かに魅力的です。 ところで、日本国内での訃報や関連記事を眺めていて気になるのが「日本人初の…」という形容詞の多さ。(これは、数年前のショパンコンクールでの反田さんについての報道ぶりにも通じるものです。) 北米ヨーロッパを代表するハイカルチャーである西洋クラシック音楽の世界で、小澤氏が築いたキャリアは日本人としては確かにパイオニアですが、非西洋人という意味では、例えば小澤さんと一歳違いのズービン・メータ(1936〜)もほぼ同じように素晴らしいキャリアを築いています。インド・ボンベイ出身のメータは1954年にウィーンに留学、1958年にはリヴァプール国際指揮者コンクールで優勝し、これを皮切りに北米ヨーロッパで大活躍、クラシック音楽ファンで彼を知らない人はいないでしょう。 要するに、小澤さんは「日本人初」だから評価されているわけではなく、奏でる音楽が素晴らしいから評価されている、ということです。 このような視点から見えてくるのは、第二次大戦後のクラシック音楽界が、非西洋人の若い才能を積極的に受け入れようとしていた、という時代背景です。(当時の日本の状況を思うと、あまりの落差に眩暈がしそうですが…) 西洋クラシック音楽のようなハイカルチャーといえども、伝統芸能という側面がある以上どうしても閉鎖的な世界になりがちで、それを受け継ぎ発展させようという才能ある若手世代が枯渇すれば衰退していくばかりです。伝統を革新し続けるためには新しい血が必要、そのために人種・出身国を問わず広く才能を探し出すべし、という考えが誰からともなく広がって行ったのだろう、というのが亭主の見立てです。(国の成り立ちという点で、北米ではそのような流れが早くからあったと想像できます。小澤さんがキャリアの初期にボストンで活躍できたこともこれを示唆しています。) ここでややとっぴな例を持ち出すと、日本の大相撲で最初の外国人力士である高見山が来日したのが1964年。彼の活躍もあって、60年を経た今では力士の3人に1人が外国人という盛況で、大相撲人気も相変わらずです。これがもし、「日本の伝統文化」ということで力士になる資格を日本人だけに限っていたら、今頃大相撲は無くなっていたかも? というわけで、小澤さんの活躍を無駄にしないためにも、日本のクラシック音楽界もダイバーシティー推進に向けてもっと積極的に動くべき状況にあると思われます。(それでなくても人口減少社会の日本では音楽家人口も減る一方でしょうから。)

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