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最近の犬親父は以前に比べ、どこか様子が違う。
何がどうというのでもなく、まあ何となくというくらいのものなのだが・・・ 「邪魔をするぞよ」 「ああ、いらっしゃい」 「ワン」 言うまでもなくロビンも一緒だ。 「まあ、粗茶ですが」 「ふむ、粗茶などといふものはないのじゃ」 「一応謙遜のつもりです。でも、実のところ私がいつも飲んでいるのは一番 安いものですから、粗茶には違いないです」 「ふぉふぉふぉ、おぬしわかっておらぬのう」 「はあ・・・」 「茶は茶であり、『粗茶』といふものはないのじゃ」 「まあ、たしかに」 「かつ、この茶はおぬしが栽培し、摘み、焙煎し、袋に詰め、店にならべ、 売ったのであるかな?」 「店先にあったものを買っただけですよ」 「じゃろうて」 「仰りたいことがわかりませんが」 「この茶がおぬしの元に来るまでに、何人もの人が関わっておるな」 「それはそうでしょう」 「で、あらば、この茶を粗茶と呼ぶのは彼らに失礼である」 「ああ、そういう理屈ですか。でも、粗茶というのはお茶をお出しする お客様への謙遜ですから」 「それはわかった上で言っておる」 そういうと、犬親父は庭先の寒椿に目を向けた。 その横顔にはどことなく、何かを超越したような趣が感じられた。 まあ、犬親父の場合は、つねに浮世離れしているので、特段珍しいこと ではないかも知れないが、このところの犬親父にはこれまでと違う何か が感じられるのだ。 「あの~、どこかお悪いのですか」 「はあ、わしゃあどっこも悪くないぞヨ」 犬親父は、鳩が豆鉄砲を食らったようなぽかんとした顔で私を見た。 その表情はいつもの犬親父そのものである。 私は少し安心した。 「昨日テレビで映画を見た。おぬしも見たかの」 「見たかのって、タイトルは何ですか」 「黒澤明監督の『生きる』じゃ」 「ああ、あの有名な。以前に見たことはありますが、昨日は帰りが 遅かったものですから」 「ふむ、何度見てもよい映画じゃ」 「それはわかります」 「志村喬さん演ずるところの役所の課長...何とも言えぬ味わいが あるのう」 「それはたしかに」 それからしばらくの間、犬親父と私は映画談義に花を咲かせた。 犬親父と私の数少ない共通点の一つが映画なのである。 「といふわけで、人はいつか自分のすべきことに気付くのである」 「でしょうねえ」 「『生きる』の主人公のように死を目前にして悟るのでなく、日常の 中で自然と悟りたいものよのう」 「同感です」 「わかればよろしい、では、また来るぞヨ」 言いたいだけ言って犬親父は帰って行った。 犬親父くらい世の中の役に立っていない御仁も珍しい。 といって毒にもなっていない。 いなくても誰も困らないというか、よく言えば時より吹く風のような 存在だ。 まあ、風の動きで大気の存在を知るということもあるので、多少の 役には立っているのだろう。 それにしてもいきなり「粗茶という茶はない」には驚いたが、一理は あるのだろう。 犬親父と話しているといろんなことがどうでもよく思えてくるから 不思議だ。 悩まなくてよいというのはいいことだけど、何だか自分も犬親父化 しつつあるのではないか、少しだけ不安だ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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