カテゴリ:歴史ウォーキング京都
こんばんは 2月3日日曜日、京都の上賀茂神社・下賀茂神社に行ってきました。 奈良盆地が先進地域だった奈良時代には、京都盆地は木津川流域の奥の辺地にすぎなかったのです。しかしそうであっても、京都盆地は神戸(摂津国)と同様に五畿内と呼ばれる特別な地域に属する山城国の中にあったわけですが、その辺地に平安京がつくられた理由を現地に赴きながら探っていこうと思います。 京都盆地は鴨川と桂川の流域からひらけ、平安京は二つの川のあいだに営まれました。そして、この鴨川流域は古代豪族の鴨氏が本拠地としていました。 【鴨 川】 一方、桂川流域に勢力を張っていたのが秦氏で、その勢力圏の中心が現在映画村のある太秦のあたりになります。 鴨氏と秦氏の二大豪族が、桓武天皇による平安遷都を後押ししたといわれています。 鴨氏の先祖は王家の大和統一を助けており、代々殿部(とのもり)といって宮廷の儀式でかがり火をたく役目を受け継いで、天皇のそば近くに仕えていました。 奈良時代、大和で仏教興隆の担い手として活躍したのが東漢氏で、五世紀末以来秦氏と対立し続けた勢力でした。それゆえに、その秦氏と鴨氏は、協力して東漢氏の衰退を狙って、都を仏教勢力の強い奈良から引き離し、天皇家の目を古き神々に向けさせようと考えたのでした。 ちょうどその時代、地方政治は救いがたい混迷に向かっていたのですが、中央の貴族はこれに有効な手を打てず、ぜいたくにふけっていました。そして、そのころの聖武天皇や孝謙天皇は壮麗な寺院や仏像を建立し、仏の力で国を救おうとしたのでした。 その結果、国家財政の破綻が深刻になり、有力寺院が朝廷の保護を受けて勢力を強めました。そして桓武天皇は仏教界が政治に介入する限り財政の健全化は望めないと考え、新たな都を造って自らそこに赴くとともに、東大寺など有力な寺院は奈良の都に残す策を取ったわけです。 そして桓武天皇は、自ら国政にあたり貴族政権の仕切り直しをはかるための政治改革を強めました。また、仏教勢力の政治への関与を排除するために、大和朝廷成立時の素朴な神々の祭りを重んじる政策をとろうと考えたわけです。 というわけで、桓武天皇と秦氏と鴨氏との思惑が一致し、桓武天皇の平安遷都という構想が実現し、平安京の誕生となりました。 そして、桓武天皇は天照大神振興のあり方を変えるのではなく、古い自然神の信仰の名残をもつ賀茂神社(上賀茂神社と下賀茂神社の総称)を平安京の守り神とする方針をとりました。 【上賀茂神社】 【下賀茂神社】 歴史は面白いですね お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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