カテゴリ:歴史ウォーキング奈良
太子町内には数多くの天皇・皇族クラスの古墳が築造されていますが、最後に敏達天皇、用明天皇陵、孝徳天皇を巡ってみました。この三つの天皇陵と推古天皇陵を巡ると、ほぼ太子町を一周することになります。 【敏達天皇陵(びだつてんのう)】第30代天皇 敏達天皇は欽明天皇の第二皇子。異母の兄弟姉妹としては、用明天皇・推古天皇・桜井皇子(吉備姫王の父)・穴穂部間人皇女(用明天皇の皇后・聖徳太子の母)・崇峻天皇らがいます。そして、皇后は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)で後の推古天皇のことで、敏達天皇と推古天皇は異母兄弟という関係で結婚しています。 【用明天皇陵】第31代天皇 用明天皇は欽明天皇の第四皇子で母は蘇我稲目の娘・堅塩媛。皇后は欽明天皇の第三皇女の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)で皇后の母は蘇我稲目の娘・小姉君です。つまり、ここでも異母とはいえ兄弟が結婚しています。そして、その間に生まれたのが聖徳太子で、用明天皇と穴穂部間人皇女の妹が推古天皇ということです。 【孝徳天皇陵】第36代天皇 孝徳天皇は、敏達天皇の孫茅渟王の長男として生まれました。宝姫王(第35代皇極天皇、第37代斉明天皇)の同母弟。 そして、父の兄つまり伯父に当たるのが第34代舒明天皇(じょめいてんのう)で、その舒明天皇の皇后が宝姫王(第35代皇極天皇、第37代斉明天皇)です。孝徳天皇は自分の姉が自分の伯父に嫁いだということです。そして、その姉と伯父の間に生まれたのが天智天皇(中大兄皇子)・間人皇女・天武天皇(大海人皇子)で、孝徳天皇はその姉の娘の間人皇女を皇后にしたのですが、阿倍内麻呂の娘の小足媛妃との間に有間皇子を儲けました。 非常に複雑なこの関係が、孝徳天皇とその息子有間皇子を悲しい運命に導いていくことになります。 その在位中には難波宮に宮廷があったことから、その在位時期に行われた政策である大化改新を含めて難波朝(なにわちょう)という別称で呼ばれることがありました。 ・・・・・ 蘇我氏の強大な権力を排除した中大兄皇子らは、皇極天皇の弟軽皇子を即位させ(孝徳天皇)、左大臣に阿倍倉梯内麻呂(あべのくらはしのうちのまろ)、右大臣に蘇我倉山田石川麻呂を、内臣に中臣鎌足を配置する新政府を樹立。中大兄皇子は皇太子になりました。 【難波宮跡】目の前に大阪城公園があります。
こうしている内に、孝徳天皇と中大兄皇子の対立が激化してきます。 孝徳天皇と中大兄皇子は、最初は蘇我本家打倒で目的が一致したとはいえ、その後は孝徳天皇系の勢力を排除することが、次期天皇の最有力者である中大兄皇子には必要不可欠だったのでしょう。中大兄皇子にとって、有馬皇子は孝徳天皇が自分の妹を裏切ってできた子でもあったわけです。 しかし、中大兄皇子は、天智天皇として即位するまでには、大きな困難を乗り越えなくてはならなかったのです。 《続く》
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Last updated
2015/01/22 11:35:45 PM
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