こんぱすコーチの全方位日記

2009/03/10(火)21:31

64年前のできごと

今日3月10日は、太平洋戦争(大東亜戦争)末期に 東京の下町が米軍の大規模な空襲を受けた日です。 戦災というと、とかく広島・長崎の原爆や 最初で最後の地上戦となった沖縄戦などが いの一番に語られますが、 この東京大空襲も忘れてはなりません。 ひと晩にして約10万人もの命が奪われたのです。 雨のように降ってくる焼夷弾が建物を焼き尽くし、 猛火が猛火を呼んで、 逃げまどう人々の髪の毛や衣服が自然発火するくらいの すさまじい炎熱地獄だったといいます。 下町の各所でこの世のものとは思えない地獄絵図が 展開されたということなのですが、 その中でも僕が強烈に印象深く残った話が、 国鉄(現JR)亀戸(かめいど)駅西側の築堤です。 下の地図にあるように、総武線・亀戸駅の西側は、 南方の東京臨港から伸びてきた貨物線と合流していますが、 64年前もまったく同じ線形でした(赤円内)。 総武線も貨物線も当時から高架構造で、 その合流部分は、下の道路から なだらかな斜面が築堤上の線路に向かって伸びています。 命からがら逃げまどい、一命を取り留めた空襲体験者の話では、 空襲翌日に付近をさまよい、この合流部分にさしかかると、 黒こげになった遺体が築堤に向かって びっしりと斜面を覆っているのを目の当たりにしたんだそうです。 避難した人たちは、少しでも火勢から逃れようと築堤へ向かったものの、 人間の走るスピードよりも速く火が回って、 あっという間に業火に包まれてしまったのでしょう。 その体験者は、その光景を画用紙に描いて説明するとともに、 60年経った今でもその光景はまぶたの奥に焼き付いている、 と語っていました。 僕は2年ほど前にここを通りかかったことがあります。 今でも総武線と貨物線の合流部分には、 築堤の線路に向かって下草の生えた斜面が、 何ごともなかったかのように広がっています。 数分おきに、黄色い帯を巻いた総武線の電車が いつものように現場を走り去っていきます。 60年前の3月10日、この場所は 黒こげになったおびただしい犠牲者の 亡きがらで埋め尽くされたのが信じられないくらいです。 あまりのギャップに、 しばらくその場所を動くことができませんでした。 東京の下町は、 今でも掘り返すと人骨が出てくることがあるそうです。 --東京大空襲。 一家もろとも全滅した世帯が多いため、 実は正確な犠牲者の数はわからないそうです。 多大な犠牲のうえに、今の平和な繁栄があることを 改めて感じ入りました。 【送料無料選択可!】NHKスペシャル 東京大空襲 60年目の被災地図 / ドキュメンタリー

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