以仁王の辺縁003 【以仁王の兄・守覚法親王について】
以仁王の年子の兄、守覚法親王はどんな人物だったのか。もの優しい男だったのか。おっとりしたタイプだったというのか。最も近い兄弟でありながら事件の前面には全く出て来ないのは何故なのか。気弱だったのか。冷たく計算高かったのか。理性的で沈着冷静だったのか。そういう同時代評価がされにくい高貴な方であるということもそうだとしても、それは勝手な印象操作ではなかろうか。守覚法親王の真言宗のトップとしての、宗教家としての活動記録は多くみられる。想像の域ではあるが、本来の性格云々は別にしても弟のあまりに大きな振れ幅を目の当たりにして猶更に、落ち着いた用心深い位置に固執したということではなかったのかと思う。一層自分だけはしっかりと踏ん張って立っていなければという感覚があったのではないか。 真言宗仁和寺御室。北院御室(喜多院御室)と呼ばれた。後白河院の下で様々な御願の修法を行い当時の仏教界の頂点にあったといわれる。永暦元(1160)年、覚性入道親王に師事して出家。仁安3(1168)年に伝法灌頂を受ける。翌嘉応元(1169)年、覚性が没した跡を継いで仁和寺御室(門跡)に就任。翌年親王となる。承安2(1172)年六勝寺長吏。安元2(1176)年二品に叙せられる。醍醐寺の勝賢にも学んで仁和寺と醍醐寺との法の交流を深める。また仁和寺の御所には多くの僧俗が祗候して,管弦や和歌や記録の文化サークルが作られていた。書道もよくし北院流三宝院の祖。建仁2(1202)年8月25日死去。53歳。和歌に優れ、家集『守覚法親王集』『北院御室御集』がある。また、仏教関係の著書には『野目鈔』『左記』『右記』などがある。『北院御日次記』という日記も記した。また、平基親の『官職秘抄』は彼のために書かれたと言われている。『平家物語』『源平盛衰記』の「経正都落」条に、平経正が都落ちの際に仁和寺に立ち寄り、先代覚性法親王より拝領の琵琶「青山」を返上した折、別れを惜しみ歌を交わした記事が残る。(以仁王を探せ 第5章より)