いつかの日、暗い海の底へ~マルガリータのアリア(ボーイトのオペラ「メフィストフェーレ」より)のマリア・カラス録音についての短い注
9月16日はマリア・カラスが世を去って33年目。カラスより3歳年長の叔母がまだ元気でいることを思うたび、早すぎる死に不条理を感じる。ゼフィレッリによれば、最晩年のカラスは日本、それも京都への移住を考えていたという。もし実現していたなら、演奏活動はともかく、もう少し長生きして、いろいろないい仕事をしていただろうと思う。日本及び京都はカラス・ファンにとっての聖地となっただろう。先進国の政治家はほぼ例外なくオペラ愛好家なので、日本に対する評価は何段階も上がったにちがいない。去年のきょうはプッチーニの「トスカ」第二幕のアリア「歌に生き、愛に生き」を取り上げた。この曲の1953年スタジオ録音、映像でも残されているコベント・ガーデンでの演奏のすばらしさに異を唱える人はいないだろうが、あまり知られていないカラスの名唄というか絶唱がある。ボーイトのオペラ「メフィストフェーレ」第3幕でマルガリータが歌うアリア「暗い海の底へ」である。カラス研究者で著書もある永竹由幸は1959年のテレビ向けコンサートのロンドン録音を絶賛している。しかし、このときがカラスがこの曲を歌った初めての機会だという彼の解説は間違っている。カラスはすでに1954年にロンドンでこの曲をスタジオ録音しているからだ。カラスはこのオペラを舞台では歌ったことがない。カラスは自分が主役となるオペラしか出演を承諾しなかった。これは当然のことだと思うが、それでは数々の名作オペラの傑作アリアを歌う機会を逃がしてしまう。カラスは舞台で歌ったことのないアリアも積極的にコンサートや放送で歌っていた。そうしたアリアの中でも、この歌におけるマリア・カラスの歌唱のすごさは際立っている。凄絶とかすばらしいとか陳腐なほめ言葉は、この歌唱にはかえって失礼なくらいだ。ほかの歌手など児戯のようなものであり比較は狂気の沙汰だ。それくらい他を圧倒し隔絶している。たった36小節の曲だが、カラスのこの曲の演奏のどこがどうすばらしいのかを書くだけで一冊の本になるだろう。少なくとも、ひとつの音につき数百字は書くことがある。36小節の音の数はたぶん200くらいだろうから、即座に数万字の評論を書くことができる。この曲のカラスの録音はいま三つ手元にある。セラフィン指揮フィルハーモニア管弦楽団とのスタジオ録音(1954年9月)、マルコム・サージェント指揮BBC交響楽団とのコンサート録音(1959年10月3日)、マルコム・サージェントのピアノ伴奏によるコンサート録音(たぶん隠し録り、1961年5月30日)の3つである。録音は新しいものほど悪い。カラスの歌をクリアに聴ける点では1954年の録音がベストだ。1959年の録音は音のよさで定評のあるBBCのくせにひどい。カラスの声は比較的大きな音像で録音されているが、弦楽器などダンゴになるし、フォルティッシモでは音が割れてしまう。1961年のピアノ伴奏によるコンサート録音はさらにひどい。ピアノの音はかろうじて音楽として聞こえるという程度で、これは客席からの隠し録り、いわゆる私家録音だろう。永竹由幸は1959年の演奏について、「このころカラスはオナシスの子どもを身ごもっていた。だから不義の子をはらんだマルガリータのアリアが自分の気持ちにぴったりだったのだ」と解説しているが、片腹痛い。かんちがいもはなはだしいのだ。音楽家の表現に実人生の体験が反映することはたしかにあるが、それは直截的なものではなく、もっと熟成というか長い年月のうちに獲得されるものである。それに、1954年、30代はじめでカラスはほぼ完成した表現を手に入れている。セラフィン、サージェント、いずれも大指揮者だが、サージェントの大音楽家ぶりは指揮とピアノの両方からうかがえる。オーケストラ前奏部分はこの指揮者がただの職人音楽家ではないことをはっきりと物語っているし、ピアノ伴奏ではオーケストラ的な広がりを感じさせる。この曲はニ短調だが、5小節目にはニ長調になったり、短調と長調の間を揺れ動く。クライマックスはニ長調の主和音の下降音型なのに、終結部分はニ短調といった具合だ。こうした不安定な調性移行を、カラスは完全に掌握している。ただメロディをきれいに歌っているのとは訳がちがう。音楽の構造全体を把握し、音楽の構造の中でのその音の意味、作曲家がそこにその音を持ってきた意味を完全に理解して歌っているのである。これほどすごい音楽的知性に出会うことはそうない。しかもその上に、不義の子をはらんだ女性の気持ちというか情念のようなものを感じさせるのだ。たった4分ほどの曲だが、オペラ一曲分くらいの密度がある。オペラとは何かと聞かれたら、この曲のことだと言いたくなる衝動は抑えがたい。まず歌い出しがすばらしい。マリア・カラスのインタビューはかなりのこされているが、構えることなく、質問に対してすっと話し始める、あのスムーズなカラスの会話が思い出される。これは歌い始めに、すでにこの役柄に完全になりきっているからできることであり、ここではマリア・カラスはマルガリータなのだ。すっと歌い出すだけでなく、やや暗い声で歌い始めている。この音色の選択の適切なことといったらほとんど神技といっていい。始まって二つめの、付点音符の短い音をはっきり発音している。歌ではあるが、言葉を語っているのだ。そのあと音階を3つ登り、Fの長い音に到達したあとAの短い音に下がる。音階を3つ登るとき、カラスはわずかにクレッシェンドするがあくまで暗い音色を保つ。いわゆる美しい声で歌うこともできただろうが、音楽の要求する音色を守っている。3つ(4つ)の音符の長さは正確に守り、いわゆるインテンポで清潔に歌っている。これが抑制された表現に聞こえ、のちのクライマックスのドラマを圧倒的に高めることになるのだが、ラシドと上がっていくドの音の前でほんのわずか、たぶん1000分の1秒くらい区切るのがわかるだろう。このことで、なめらかに上がっていくのではなく、何かを躊躇する女の気持ちが、歌詞がわからなくても伝わるのだ。Fの音まで上がったメロディーはいったんAという中間地点に着地し、さらにF、E♭、F、Dと下がる。E♭はニ短調の中にはない音であり、変ホ長調かハ短調に転調したのかと思わせる。すぐにニ短調に着地するのだが、このE♭の音は音楽的に非常に重要だ。この音の前のFから、カラスは発声を変え、胸声を使っている。そしてそのことでE♭の二つめの「BO」という音にものすごい深みと暗さを与えている。このE♭からF、そしてDの音にはそれぞれスフォルツァンド記号(その音だけ強く)が付けられている。作曲者はここで音の強さではなく、重さを要求しているのだ。だがただ同じように重く歌うと音楽的ではなく、流れは止まってしまう。カラスはわずかにおのおのの音の重さを変えている。E♭二つめの音を長く保ち、次のF3つのうち、3つめに重点を置いている。後半で同じメロディが繰り返されるとき、このF3つのうちの2つめをカラスは爆発的に歌うのだが、ここでは少しおとなしく表現することによって、後半のこの部分の灼熱のような表現とうまく対比させているのだ。ここまでで最初の4小節について述べた。イタリア語の発音についてや次の4小節で同じメロディがやや音程を変えながらニ長調になる部分との対比がどういう効果を生んでいるかなど、書きたいことの半分も書いていないが、このブログは5000字が制限なので書ききれない。次の4小節についてはまた来年の命日にでも書くことにしよう。10年ぐらいのうちには、36小節全体について書ききることができるかもしれない。