同志は斃れぬ-追悼・佐藤真
1984年以来の友人でドキュメンタリー映像作家の佐藤真が9月4日に自殺した。元東大文学部自治会委員長の、ノンセクト学生運動の同志は斃れた。躁うつ病で入退院を繰り返していたというが、あの粘り強く芯の太い温厚なキャラクターからは想像もできない。突然の自殺は、薬の副作用を疑いたくなる。知り合ったのは彼が助監督をやった水俣の記録映画「無辜なる海」の全国キャラバンだった。弘前出身の彼は東北・北海道地区を担当することになり、記録映画の上映に関心を持っていたわたしのところに連絡があったのだった。この上映の北海道における失敗(という自己総括)は、わたしの人生を大きく変えるきっかけになった。1980年代のはじめは、反核運動のうねりが大きくなっていった時期だった。札幌では丸木夫妻の「原爆の図」展が数万人、映画「水俣の図・物語」も数千人規模の観客を集めた。元日大全共闘書記長の故田村正敏が始めた勝手連運動の力で「革新系」知事が誕生したり、何かが大きく変わるかもしれないと思われた時期だった。「無辜なる海」は、淡々とした地味な映画で話題性もなかったが、こうした熱気の余波を借りて、千人くらいは動員できるだろう、できなければ失敗だ。そう考え、「駅裏八号倉庫」を会場に選んで準備したのだった。結果は、わずか数百名の動員に終わった。「原爆の図」や「水俣の図」は、丸木夫妻というスターがいた。絵画という切り口もある。教職員組合を通じてチケットが流通し、教師がたくさんの生徒を引率する姿が見られたりした。結局のところ、当時まだ堅固だった労働組合を中核にした「労働運動」だったのだ。それを隠して、マスコミにコネクションがありマスコミ受けのする自然保護運動家や編集者などの個人が前面に出て草の根の市民運動ぶっていたのだ。それがとりたてて悪いわけではない。その成功したやり方を踏襲する手もあったが、映画を「運動」の目玉にするのではなく、映画として映画好きの人たちに見てもらいたい。もちろんふだんは映画など見ないが「社会問題」に関係のある映画なら見るという人たちにも見てもらいたい。そう考えた。その少なめに見積もった動員可能数が千人だったのである。来場した数百人の内訳は、どんな映画でも全部観る少数の映画フリークを除けば、安全な食べ物にこだわる消費者運動に参加している比較的若い主婦、職業的な関心のある看護学生や看護婦といった女性、身内と言っていい環境保護・障害者運動の活動家たちだった。 それもほとんど個人的な関係、クチコミの範囲にとどまった。社会問題に関心のない人に、この映画を通じて社会への眼を開いてもらいたいという気持ちと、社会問題に関心はあっても文化・芸術に関心のない人たちにこの映画を通じて文化・芸術の力に眼を開いてもらいたいという気持ち。そのどちらもが満たされず何も獲得することなく終わってしまった。映画ファンは、うさ晴らしにならないような映画には来ないし、「運動」の匂いがすると避ける。活動家たちは、カツ丼食べながらの運動にしか関心がなく、精神というか内面を豊かにし感性を磨く文化・芸術の重要性をほんとうのところでは理解していない。要するに、人寄せの手段くらいにしか考えていない。そういう状況全体に嫌気がさした。端的に言えばしらけてしまったのである。マスコミに売り込みの上手な人たちのようなやり方をとらなかったのは、小ぎれいな公共ホールではなく、ニューヨークのソーホーにあるような、石造倉庫の大きな壁面全体をスクリーンにして上映することで、非日常的な場所と空間で水俣の人と出会うような、そんな場を作りたかったからだ。市民社会の内側で、自分は安全なところに身を置きながら、社会問題に「関心」を持ち「運動」に参加している人たち。同時に、映画をあくまで映像作品ととらえ、自分の生き方にとらえかえすことなく教養主義的に「鑑賞」することしかしない人たち。その両方に、いささか危険な匂いのする場所に身をおき、その暗闇の中で水俣の海と人に出会ってもらうことで、ゴダールが「ヒアアンドゼア」で提起したような事柄に目覚め気づくきっかけにしてほしかったのだが、そのもくろみは完璧に失敗したのだった。そうした一連の経過があって、記録映画の上映という、ライフワークにしてもいいと思っていた事柄に見切りをつけると同時に、状況全体に倦んでしまったのだった。三里塚のパック野菜運動のように、水俣の無農薬甘夏みかんの共同購入といった方向にもつなげてみた。しかし、これは一部の農家が実はわずかだが農薬を使っていたことが判明し、混乱のあげく終焉してしまった。ふつう、こうしたイベントの終了時には、関係者全員で打ち上げを行う。収支報告をし、酒を酌み交わしお互いの労をたたえる中で、では次はこんなことをやろうというアイデアが飛び交い、自然と次にやることが決まっていくものだ。しかしわたしは打ち上げをやらなかった。活動家たちは、たとえば当時焦点化していた岩内原発反対運動に熱中していて地味な記録映画に関心を示さなかったし、興行的に成り立ちにくい記録映画の上映に協力的なはずの良心的な映画関係者たちも冷淡だった。それはたぶん主催者であったわたしが、そのどちらにも属さない、つまりそのどちらの「ムラ」の住人でもなかったことが原因だと思う。日本的「ムラ社会」思考は、こんなところまで浸食していたのだ。そうしたムラ社会とは訣別しよう。今後、こういうことには一切手を出すまい。そう考えて、打ち上げの代わりに、佐藤真と、当時付き合っていた彼女とその友だちと四人でディスコへ行ってただ遊んだ。反省や総括めいたことはいっさいやめ、一夜の宴と共に「夢」をすべて洗い流した。あの夜、いわゆる青春の日々に別れを告げたのだ。この映画の上映に使った自己所有の16ミリ映写機も笹日労(笹島日雇労働組合)に寄付してしまった。彼は興行的な不成功について一切言わず、いつものように穏やかに微笑みながら、オホーツク海で漁師になろうかなあ、などと言っていた。自分で撮りたい映画のテーマを探していたのかもしれない。お互い自分探しにもがいていた時期だった。しかし、それを話してはおしまいという気がしたし、プライドがゆるさなかったから、話さなかったし訊かなかった。東大文学部自治会委員長だった彼は、いままで会ったことのある東大出身者と決定的に異なる強烈な個性を持っていた。東大出身者には共通して専門外のことはしたくない、なるべく自分の手は汚したくないというエリート意識が感じられるものだ。また、どこか秀才特有の病的に神経質な部分を持った人も多い。しかし佐藤真にはそういうところが全くなかったし、学生活動家あがりの人間特有の屈折した観念性や先験的な正しさを誇る独善性からも完全に無縁だった。何より、公害被害者を救わなければ、被害の実態を伝えなければといった使命感ではなく、底辺で生きる人々、市民社会からはじき出された人々を強く愛したからこそ結果として作品ができた。底辺の人々と水平に交わることが彼の人生の規範と原則だったという点で、類例のない「元東大生」だった。彼の作品を東大学長の蓮見重彦が激賞したのには、東大出身者にこんなすごい映画が作ることができるというのかという驚きも入っていたのではないか。あんなに人間くさい東大出身者は小田実以来だったかもしれない。どんな世代のどんな境遇のどんな立場の人とでも腹を割り仲よくなって話すことができる。そんなキャラクターは、寡黙だがあたたかみのある、いかにも北国の人という感じではあった。これから追悼の催しが全国で開かれるにちがいない。陳腐な追悼の決まり文句が氾濫するだろう。残念なのは、世界最高のドキュメンタリー作家の新作が永遠に観られなくなったことではなく、10年ぶりに会ってもそのブランクなしに、いきなり物事の核心を話すことのできるほとんど唯一の友人を失ったことだ。 躁うつ病は、更年期など、いろいろな原因で起きる。撮る映画は内外で高く評価され、近年は大学教授の地位も得ていた。プライベートは満帆ではないにしても順風だったはずだ。だとすれば、この世の不幸をたくさん見過ぎたことが、長い年月の内に精神を傷つけてしまったのだろうか。それとも、世界の不幸に対してのあまりの無関心、繁栄を誇る享楽文化に浸りすぎ問題意識の欠落した狂人ばかりになってしまったこの世界への無意識の絶望が蓄積し臨界点を超えてしまったのか。7月に亡くなった小田実は、大阪大空襲の経験から、「殺される側」に身を置き、そこからすべての自分の思考を組み立てることを原則としていた。佐藤真の映画も、市民社会から排除され周辺においやられるマイノリティの側にほとんど同化した位置から撮られている。これは欧米の知識人や芸術家にはほとんど欠落している視点であり、それが彼らの思想や作品のかけがえのない価値となっている。さようなら、佐藤真。きみの得意料理だったバンバンジーはおいしかった。あれをつまみに、昔より少しはグレードアップしたバーボンを飲みながら、パレスチナについて、市民社会の腐朽について、記録映画について話したかったがそれはもうかなわない。いつかまた会う日まで、どうか元気で死んでいてくれ。