さっちゃんのお気楽ブログ2

2016/05/25(水)19:28

さっちゃんの思い出 ~助任橋~

さっちゃんの思い出の場所として、 しばしば記事に登場するのが「助任橋」です。 このすぐ近くに青春時代を過ごした家があったようです。 「藍の風」でも「郷愁の助任橋」として思い出が 綴られていますし、短歌にも登場します。 助任橋は助任川に架かる橋で、徳島市徳島町3丁目(南岸)と 助任橋1丁目(北岸)を結んでいます。 今はすぐ東を通る助任新橋は主な通りとなっているようです。 さっちゃんの「助任橋」が出てくる記事をちょっと見てみました。 2010年6月23日 助任橋はむかしは御影石のどっしりとした橋でした 欄干の温かくてすべすべした感触を今も覚えています 橋の下では四手網でエビを捕っているのをときどき見かけました 橋のたもとに新しく小屋を建ててうなぎ屋ができました 学校の帰りに鰻を料理している様子をいつも見ていました だから、いつの間にか鰻のさばき方を覚えていました 2014年6月18日 子供の頃、銭湯へ行くと屋台で太鼓焼を売っていた。 暗くなって風呂屋へゆく冬は寒い。 帰りに太鼓やきの屋台を見つけると欲しくなる。 母は習慣になると困るのでめったに買ってくれない。 たまたま、ご機嫌がいい時に買ってくれたようだ。 「耳切れ橋」で有名な助任橋の上は北風の吹きさらし ふかぶかとショールでぐるぐるまきにされて帰るとき ポケットにアツアツの太鼓やきの袋はなによりうれしかった。 2015年5月15日 助任橋のこと 徳島公園の近くにある助任橋は 小学校の時からの通学路であり 日常の買い物、みそ、しょうゆから番茶の葉 魚屋、文具や、呉服屋、銭湯から散髪屋などなど この橋を渡れば、たいていの用はすませられた。 ところが、「耳切ればし」のあだ名がついていて 冬の寒さは忘れられない厳しさであった。 御影石のどしりとした感触も、蜂須賀さんの 御城下の誇りでもあったようだ。 2015年8月27日 子供の時は公園が近くにあり助任川の埋め立て地 草ぼうぼうのまま建物は立ちませんでした。 だから遊ぶ場所はたくさんありました。 夏の夜二階の窓で涼みながら助任橋の上を車が何台通過するか あてっこしましたが一晩に7台ぐらいでした。 2015年10月5日 今日も真っ赤かのゆうやけ。  懐かしいなあ。 夕焼けを見てとくしまを思い出したよ。 助任橋の上から西の空の夕焼けは美しかったよ。 空襲で焼け出されて山峡の町の暮らし70年は別の人生 松並木の間から昇る朝日、大きな月が出てくる 助任川のほとり、自然がいっぱいの昭和の初めに 帰ってきたようだが!!!!!? 下の記事は2015年7月13日のブログからです。                 syun              ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2015年7月13日 ・ 「初めての入学試験」 小学校は家から一番近い助任橋渡ると 対岸にあって10分くらいの所にありました。 試験の時、ひさしがみの女先生が 透明なガラスで作った自動車の形のものを 見せて「これはなんでしょう」とたづねられました。 さっちゃんはみたまま「じどうしゃ」と答えました。 先生「これはインク壺です」先生は2度3度 同じ問いを繰り返します。何度聞かれても 「じどうしゃ」の形にしか見えません。 先生はインク壺と教えたかったのでしょうか。 普通のインキのビンは知っていますが インキが入っていないとわかりません。 「女学校の入試の時」 女学校の入試は昭和9年だったと思います。 最期の口頭試問で「国体の精華とはなんですか」 今の子供だったら、当然国体ならスポーツの種目を 上げるでしょう。 精華の言葉を知りませんでした。 なにをきかれているのかちんぷんかんぷんでした。 そんな言葉小学校で教えられた記憶がなかったと思います。 その頃、何も知らないうちに戦争を予想した 国の方向が進行していたのです。 再びあの時代にもどらないよう、 みんなでがんばりましょう。

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