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カテゴリ:第一章■呪術都市
仙台城は、青葉山にあるため別の名を青葉城とも言います。 地元仙台っ子にとっては青葉城のほうがしっくりくるかもしれませんが、当ブログではあえて「仙台城」と記載します。 ここは もと国分氏が住んでいた城があった場所です。 そのところには虚空蔵(こくうぞう)や千躰仏(せんたいぶつ-千体の仏像)などが祭られていたため虚空蔵楯(こくうぞうだて)とか千躰城(せんたいじょう)または千代城(せんだいじょう)とよんでいました。 伊達政宗公はこの地に城を築くに当たって、『千代(ちよ)とかぎらじせんたいの松』と詩を詠み、代々が千代で終わってしまうのではなく、常に緑が生き生きしている松のように長く栄えることを願い、また不老長寿の仙人が住むという中国の「仙台」という地名から「千代」→「仙台」に改めたのです。 仙台城の特徴は、崖にせり出した「懸け造り」と言う建物です。 ここから城下を一望にでき、城下からは 北目町から柳町に入って西に向かうとこの懸け造りのお城が見えたのです。 六芒星ではここから柳町に沿って一直線上に榴ヶ岡の天神社があります。 この懸け造りは「眺望亭(ちょうぼうてい)眺えい閣(ちょうえいかく)」と呼びました。 ここから政宗公と綱元が並んで’鉄砲のつるべ討ち’を眺めたという記録があります。 鉄砲は片平の西端の旧家庭裁判所のところから 東北大学の南側を通り五橋から土樋を経て、宮沢橋のある舟丁まで並べられました。 鉄砲組は西から、徒歩小姓組、不断組、給主組、名懸組と総足軽組を配し、その数2000挺に及んだとあります。 眺望亭の北側の本丸敷地内に、大町勝左衛門重吉組の三十人の鉄砲足軽を置いて合図の鉄砲を撃たせると、西側から、ダダダダダダダダダダダ・・・・と三回行った とあります。 さぞかし気持ちの良い眺めだったことでしょう。 それから暫くの後、鉄砲のつるべ討ちは長町で行われました。 片平の時は広瀬川(当時の記録では仙台川とあります)の川向こうの土手に向かって、長町の時には大年寺山に向かって撃ったとあります。 記録には、片平の時は、慶長14年7月24日です。 この二回のつるべ討ちは表向き’鉄砲組みの演習’だと思われますが、もうひとつ陰陽師親方の推測によると、政宗公が密かに企画した'干支が関係する'内々のイベント(陰陽道祭祀)とも考えられるのです。 「星の街仙台」P15を参照。 六芒星を形作る二つの三角形ですが、易経では、万物の「誕生」「盛ん」「死」の三種の変転生・旺・墓とした「三合の理-さんごうのり」というものがあり、それを十二支へ配当して図形が描かれます。 年に十二支を用いていたように月と日にも用いていました。 片平のつるべ討ちが行われた慶長14年の7月の24日は「卯」の日です。 長町のつるべ討ちの日も「卯」の日でした。 その「卯の日」に囲まれた8月3日は政宗公の誕生日なのです。 慶長14年は「己酉(つちのととり)」年の1609年で、政宗公42歳、綱元60歳でちょうど二人の厄年になります。 政宗公は1567年(永禄10年)「丁卯(ひのとう)」のうさぎです。 この二回行われたつるべ討ちは、誕生日をうさぎの日で囲んで、’疫病神’を鉄砲で撃ち殺したことになります。 南に撃って、次に西に撃ったということはその中間(南西)には江戸があります・・・。 政宗公のことだから 「おれもツナも厄年だな。。。鉄砲でもぶっ放してパァーっといくか」 「フフ、、それは良いお考えで。幕府の目付けも呼んで派手に参りましょう」 てな感じでやったんでしょうか・・・。 ご注文 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2016.03.29 16:56:09
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