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家康が「反乱軍が天皇を擁したら、水戸藩は天皇方につけ」と密かに命令した根拠として井沢元彦は色々上げていましたが、その中に正妻のことも書いてありました。
徳川将軍や分家である御三家の当主の正妻は皇族か公家の娘が多いのです。 ところがこの正妻が跡継ぎを生まないように配慮していたというのです。 将軍の母方の祖父が天皇だとなれば、平安時代の藤原摂関家の逆のような現象が起き、天皇が幕府に一定の影響力を持つようになってしまうからです。 ところが水戸家だけは皇族の正妻が生んだ男子を平気で当主にしていたというのです。 ほんとかなと思って調べてみると確かにそうでした。 将軍家の跡取りは全て側室が産んでいます。 しかし水戸家の当主の中には実母が皇族だというのがいるのです。 最後の将軍だった徳川慶喜は水戸家の出身でした。 水戸家の9代藩主徳川斉昭の七男でしたが、実母は有栖川宮織仁親王の娘吉子です。 彼は10歳の時に一ツ橋徳川家に養子に行きました。 一ツ橋徳川家は御三卿の一つです。 御三卿というのは、田安徳川家、一ツ橋徳川家、清水徳川家の三つですが、非常に奇妙な存在です。 それぞれ10万石づつを幕府の予算からもらっていました。 領地を貰ったわけではないので独立の大名ではなく、法的には将軍の家族なのです。 家来も独自に召抱えるというのではなく、将軍の直臣である旗本・御家人が出向していました。 この御三卿を作ったのは八代将軍である徳川吉宗でした。 彼は息子二人と孫一人を当主にしたのですが、その理由は将軍が跡継ぎなくして亡くなり御三家にも適当なのがいなかった時の為に、血筋を保存するというものです。 これはまたおかしな屁理屈で、御三家には当主・分家合わせて家康の血を引く男子がゴマンといるわけで、余計なものを作る必要などないのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年06月27日 08時29分38秒
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