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敗戦時に20歳ぐらいだった方がまだ50歳代だった時ですから、今から30年ぐらい前のことです。
私は、戦前の大きな地主の家に生まれた方と知り合いになりました。 彼の家は大勢の小作人を抱えていていましたが、彼自身も百姓をやらされたそうです。 家は大きく「屋敷」というべきものでした。 その家の南の良い場所に客間があり、また広い土間を持っていました。 上等の客は客間に通すのですが、小作人や普通の百姓は土間で相手をしたそうです。 使用人から来客を告げられた当主(私の知人の父親)は、その客の身分によって土間の座らせる場所を指定していたそうです。 土間をいくつかに仕切って、その間に上下があるのです。 「小作人の五作なら、入り口の左側に座らせておけ」という具合だったそうです。 百姓の中でもその身分が細分されていたのです。 百姓は「本百姓」と「厄介(やっかい)」に大きく分かれていました。 本百姓は田を持った自作農以上で年貢を負担している者をいいます。 彼らは村の鎮守の宮座のメンバーで村の政治に参加する資格がありました。 本百姓の中でも田を何町持っているか、また村役人としての役職を務めているかで、身分に差が有ります。 息子が陸軍士官学校出の将校のような場合は、親である百姓の身分が上昇したそうです。 厄介とは、小作人や季節労働者のことで、年貢を払えない厄介者という意味です。 彼らは当然宮座のメンバーにはなれません。 結局、その村では自分と全く同じ身分の者はおらず、全ての者はトップからビリまで序列がありました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年04月21日 10時40分00秒
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