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まず、今日は長女の二十歳の誕生日です
おめでとう! そして、この両親のところに生まれてきてくれてありがとう!! ________ 昨日、僕は宇治田原町で本番、ワイフは次女の高校の学園祭の手伝いに行きました 帰宅するとリビングに、三女のちび3の保育園の卒園アルバムが出されていました なんでかな、と思っていると、ワイフが… …お父さん、今日ね、終わった後みんなで雑談してたの 学年ひとつ下の子供さんのお母さんが 「今朝は早く自宅を出ました。滋賀県の甲南町から来ました」 と言うので、私は 「私、以前にそこに住んでたんです」 っていうと、その人は 「松島ちび3ちゃんのお母さんですか?」 って、ちび3の名前をフルネームで言うのよ 「私、ちび3ちゃんと保育園で一緒だった○○の母です」 「ええーっ」 私は相手の子供さんの名前を聞いてもすぐには思い出せへんかったけど… 「ちび3ちゃん保育園の年長さんの秋に引っ越しをされて、私、娘と仲良しのお母さん数人と、お引っ越しの朝、お別れに行ったんですよ」 って…! 思い出したわ。確かに来てくれはった… 当時はそのお母さんとは親しくはなくて、話もしたことなかったけど 「あの頃松島さん△△銀行でパートしてましたよね」 なんてことも、覚えていてくれて、ほんまに懐かしかったわ で、帰ってちび3の卒園アルバムを見たらそのお母さんもちゃんと写ってた… ワイフの話を聞いて、僕も滋賀県で住んでた頃を懐かしく思い出しました 初めてマイホームを購入して、引っ越したのがちび1が1歳になったばかりの19年前 その後、ちび2ちび3と生まれ、にぎやかな家になった 京都からは遠かったけど、自然がいっぱいで敷地も広かったので、庭でバーベキューしたり、当時は三交替勤務だったので、これでもかと言うほど子供たちと遊びました そのうち僕が毎日勤務になり、片道2時間近くの通勤で、夜は遅くなるといつも午前様かサウナで泊まる毎日 これでは身体が持たないと思い、当時は随分無理をして思い切って京都に帰ってきました それが、ちょうど10年前の10月の末頃でした こちらに帰る頃には、子供たちはそれぞれ自分の親しい友達と離ればなれにならなくてはならず、上の2人は嫌だと言って反対しました そんな中、保育園のちび3だけは 「私は京都へ行く」 って言ってくれました 僕ら夫婦は子供の気持ちもよく分かるし、辛かったのですが、やはり今後のためにと思い、こちらに引っ越したのです 滋賀県ではご近所さんはみんな仲良しで、とても親しくつきあいをしていました 出来るものならずっとそのまま暮らしたかった 子供の気持ちも考えると、引っ越しを決めた自分が極悪人のように思えました 引っ越しの朝、姉妹の中でひとり引っ越しに賛成の三女の姿が見えないので探すと、いつも遊んでいた公園のブランコに座っていました 「ちび3、楽しみにしていた引っ越しだね」 と声をかけると、いつもはにこにこしている三女はブランコでじっと下を向いたままでした 僕が後ろからブランコの鎖を握りながら近づくと彼女は、とても小さな声で 「なんでって(だって)、ひとりぼっちなんやもん」 って言ったのです いつも陽気なこの子は、きっと僕のことを思って、反対しなかったんだ… そう思うと、僕は娘にとても申し訳ない気持ちがしました 僕が後ろからぎゅっと抱きしめると、僕の手の甲に娘の暖かい涙がこぼれたのを思い出しました その後、家に戻ると、昨日ワイフが再会した友達のお母さんが、子供を連れて来てくれていたのでした 京都に帰ってきて10年 日々の忙しさに紛れて、あの当時の気持ちなどすっかり忘れていました あの時、小学校4年生だった長女は、今日20歳の誕生日を迎えました 人生の前半分を滋賀県で、後の半分を京都で過ごしたことになります ちび1よ、誕生日おめでとう 小学校2年だった次女は、現在美術系大学の受験の真っ最中 明るい娘に育ちました 年長さんだった三女は、あの頃はいつも僕にくっついていて、「磁石」と呼ばれていましたが、今はしっかり父親を敬遠する年になりました 僕は、いつも自分が子供を育てているような気分でいました でも、昨日のワイフの再会話を聞いて、改めて振り返ってみると、自分がこうして幸せに暮らしていることは、けっして自分の力ではなく、いつも自分を理解して支えてくれた家族があってこそだと感じます 縁があって夫婦になり、縁があって親子になり、そして縁があって出会い、縁があって別れていく 決して当たり前ではなく、一つ一つ思い出すと、胸がいっぱいになります 僕にこんな気持ちをよみがえらせてくれた、ワイフと懐かしい人との出会いに、心から感謝しながら、出来るなら自分もまた、人に感動を与えられる人になりたいなと思いました お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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