愛と慈悲
キリスト教文化圏では、「愛」と言うものが 人間にとって 最高に すばらしいもの、尊いもの とされている。それは おそらくイエス キリストが、新約聖書の中で以下のように命じたからであろう。34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。『新約聖書』ヨハネによる福音書13章34、35節ここで使われている「愛」と言う言葉は、日本語において、ヨーロッパ言語における 英語の「love」に相当する語の翻訳語として、明治以降 使われるようになった言葉である。新約聖書の この部分は、英語では次のようになっている。34 “A new command I give you: Love one another. As I have loved you, so you must love one another. 35 By this everyone will know that you are my disciples, if you love one another.”ところで、新約聖書の原文は ギリシャ語で書かれていた。古代ギリシャ語において「愛」を表す言葉は、たくさん あったと言う。・エロス(情欲的な愛)・フィリア(深い友情)・ルダス(遊びとゲームの愛)・アガペー(無償の愛)・プラグマ(永続的な愛)・フィラウティア(自己愛)・ストルゲー(家族愛)・マニア(偏執的な愛)ギリシャ語の新約聖書において イエスの説く「愛」をあらわす言葉には「ἀγάπη=アガペー」が使われている。新約聖書の別の個所でイエスは「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。(ヨハネ 15-13)」と言っており、人間に対する「愛」ゆえに、人間の原罪を あがなうために イエスは十字架上で死んだ とされているのだから、創造主の化身であるとされるイエスの説いた「愛」は「アガペー」または「フィリア」であったはずだ。ところが「love」は、上記の様々な愛の すべての意味で使われる。聖書が英語に翻訳された当時、英語にはアガペーに相当する言葉がなかったので、しかたなく「love」を使ったものと思われる。しかし「love」と言う言葉は、日常的には「恋愛」とか「性交」、趣味的な「大好き」と言った意味でつかわれることが多い。東洋人に比べて 欧米人には、特に「恋愛」を過大に評価する傾向があるが、これは 聖書の不正確な記述ゆえだろう。ちなみに「恋愛」を表す古い日本語、「恋」と言う言葉は、「乞う」と言う言葉からきているのではなかろうか。つまり この言葉は 相手の心身を所有したいという欲求をあらわしていたようだ。また、江戸の町人が使っていた「惚れる」と言う言葉は、もともと「頭がぼおっとして ほうけたようになる」と言う意味だった。日本人は、自然な感情としての恋愛を 否定していたわけではないが、格別 高く評価しては いなかった と思われる。仏教が重視する感情は「慈悲」、パーリ語で「慈」は「メッター」すなわち真実の友情、メッテイヤ(弥勒菩薩)の語源である。「悲」は「カルナー」すなわち相手と共に悲しむこと、つまり哀れみだが、もっとも古い経典では単に「メッター=慈しみ」となっている。要するに「生きとし生けるものに対する 無差別で あたたかい思いやりの心」である。これが「アガペー」に相当する 見返りを求めない無償の愛である。それに対して 日本語の「愛」は、対象に対する所有欲や執着心、すなわち「煩悩」を引き起こす感情をあらわす言葉だった。また 西洋人の二元論的な思考様式からすると、「愛」は「憎」の対義語、「好き」は「嫌い」の対義語であり、 何かを愛するということは、何かを憎むこと、何かを好むということは、何かを嫌うことになる。それは また「愛の対象をもっともっと獲得したい」「憎の対象を根絶したい」という煩悩につながっていく。西洋文明が強欲で闘争的な傾向を持つのは そのためだろう と思われる。それに対し 仏教は、老荘思想と同様に、煩悩を離れ、足るを知り、みんなが平和で、仲良く、安らかに暮らすことを理想とするのである。ブッダの教えるところによれば、この世にありとある ものごとは、すべて原因があって存在しているのであり、気に入らないからと言って 力ずくで取り除くことはできないのである。以下は 最古の仏典からの引用である。143 究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和(にゅうわ)で、思い上がることのない者であらねばならぬ。144 足ることを知り、わずかの食物で暮し、雑務少く、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の(ひとの)家で貪(むさぼ)ることがない。145 他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。146 いかなる生物生類であっても、怯(おび)えているものでも強剛なものでも、悉(ことごと)く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、147 目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。148 何びとも他人を欺(あざむ)いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。149 あたかも、母が已が独り子を命を賭(か)けて護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)意(こころ)を起すべし。150 また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。151 立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥(ふ)しつつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。中村元 訳『ブッダのことば ―スッタ ニパータ― 』第一 蛇の章 八 慈しみ よりまた『老子』においても「慈しみ」は三宝のひとつに数えられている。私の道には三つの宝があり、大切に守り続けている。その一つは「慈」―慈しみの心であり、その二つは「倹」―つづまやかさであり、その三つは 世の人の先に立たぬことである。慈しみの心を持つから、真の勇者であることができ、つづまやかであるから、広く施すことができ、世の人の先に立たぬから、器量を持つ人々の かしらとなることができるのだ。ところが今、慈しみの心を捨てて勇者たらんとし、つづまやかさを捨てて広く施そうとし、人後につくことをやめて、先に立とうとすれば、命を落とすだけである。いったい慈しみの心は、それを持って戦えば、戦いに勝ち、それを持って守れば、守りが固く、天も彼を救おうとして、慈しみをもって守護してくれる。福永光司 訳『老子』67章より老子やゴータマ ブッダが勧める「慈しみ」は、愛憎二元論を超えた「至高の愛=アガペー」である。ところで 現代ギリシャ語において「ἀγάπη=アガーピ」は、恋愛も意味する。ほとんど「love」と変わらない言葉になっているのかもしれない。日本においては 特に敗戦後、米英の大衆文化の影響で「love=愛」を過大評価するようになったが、東洋文明の良いところを忘れてはいけない と思う。