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![]() 家系は長州藩に仕え、祖先は宇多源氏につながるという。東郷平八郎とともに日露戦争の英雄とされ、「聖将」とも呼ばれた。若い頃は放蕩の限りを尽くしたが、ドイツ留学後は質素な生活を旨とするようになったという。また、明治天皇の後を追った乃木夫妻の自殺は、殉死として美談にもなった。山口県、栃木県、東京都、北海道など、複数の地に乃木を祀った乃木神社がある。また、トルコやポーランド、フィンランドなどでは今でも名前に「ノギ」とつける人も少なくなく、また日露戦争後、満洲人の民家に満洲からロシアを追い払った感謝の念を込めて乃木希典の肖像画が飾られていたという。 経歴 1849年 長州藩士のもとに生まれる。現在六本木ヒルズになっている長州藩上屋敷が生誕の地。 1871年 陸軍少佐に任官 1877年 歩兵第十四連隊長心得として西南戦争に参加、連隊旗を薩摩軍に奪われる 1886年 川上操六らとともにドイツに留学 1894年 歩兵第一旅団長(陸軍少将)として日清戦争に参加。旅順要塞を一日で陥落させたが、占領地の虐殺事件で世界の 非難の的となる。 1895年 第二師団長(陸軍中将)として台湾征討に参加。 1896年 台湾総督に就任 1898年 台湾統治失敗の責任をとって台湾総督辞職 1899年 第十一師団の初代師団長(中将)に親補せられる 1904年 休職中の身であったが日露戦争の開戦にともない、第三軍司令官(大将)として旅順攻撃を指揮。2児を戦争で失う。 1907年 学習院院長として皇族子弟の教育に従事。昭和天皇も厳しくしつけられたという。 1912年 明治天皇大葬の9月13日夜、妻静子とともに自刃。 評価 日露戦争・旅順攻略戦 日露戦争時の旅順攻略戦に対する乃木の評価は識者の間だけでなく、歴史好きの人たちの間でも度々議論になっている。乃木無能論は戦争当時からあったが、これが一般的になったのは司馬遼太郎の『坂の上の雲』によってであろう。歴史的評価を小説に頼るのはどうかと思うが。第二次世界大戦以前、乃木は軍神として崇敬された信仰の対象であり、『坂の上の雲』発表当時もまだ乃木に対する評価は高かった。『坂の上の雲』発表後すぐに、乃木擁護論が発表されるなど大きな議論ともなった。 乃木無能論を展開する人たちの根拠は以下の通りである。 単純な正面攻撃を繰り返した。 旅順攻略の目的は、ロシア旅順艦隊を陸上からの砲撃で壊滅させることであった。それにも関わらず、旅順要塞攻略に固執し、無駄な死傷者を出した。 日清戦争時に旅順要塞を僅か一日で落としたため甘く見ていた。 攻略戦初期の威力偵察で、要塞近くの203高地から旅順港に停泊している旅順艦隊を観測可能なことを確認していた。しかもその時、ロシア軍は203高地の重要性を認識しておらず簡単に占領できた。 その後、ロシア軍が203高地の重要性に気付き要塞化してしまうのを許してしまった。 児玉源太郎が現場指揮を取り、目標を203高地に変更した数日後に203高地の奪取に成功した。 6万人の死傷者を出したにもかかわらず、旅順要塞を最後まで陥落できなかった。 一方、乃木弁護派の意見は以下の通りである。 旅順攻略は、戦前の計画には無かった。海軍からの要請を請け急遽第三軍が組織されたため準備不足があった。 要塞攻略するための重火器や砲弾の数が圧倒的に不足していた。 日本軍には近代要塞攻略のマニュアルはなく急遽、欧州から教本を取り寄せ翻訳していた。 乃木が採用した火砲による準備射撃の後に歩兵が銃剣突撃するという強襲攻撃は要塞攻略の一つとして用いられており、その後の第一次世界大戦でも行われている。 第一回総攻撃は横隊突撃戦術を用い大損害を被ったが、第二回総攻撃以降は塹壕には塹壕で対抗する、という正攻法に作戦を変更している。 大本営からの旅順攻略戦に対する指揮内容が二転三転した。また大本営から過剰な指揮介入があった。 児玉源太郎が旅順に来る以前にすでに203高地奪取の方針に転換していた。児玉源太郎に指揮権を委譲しなくても203高地を奪取することはできた。 観測所設置は203高地以外でも可能であり、また、203高地占領(12月6日)から要塞陥落(1月1日)までは一ヶ月の間が開いており、主要因とは呼べない。 旅順艦隊は既に戦闘能力を失っており、攻撃による撃沈ではなく、自沈である。 日本軍には本格的な攻城戦の経験が少なく、しかも乃木と参謀であった伊地知幸介は、野戦向きで攻城戦は不慣れであった。 旅順陥落が日露戦争の大勢を決めた。 旅順攻略戦後にロシア側のステッセルとの間で水師営の会見が行われた。そこでの乃木の紳士的で寡黙な雰囲気は、諸外国の記者が持つ日本人観に大きな影響を与えたといわれている。乃木はステッセルらロシア軍幕僚に帯剣を許し従軍記者たちの再三の要求にも関わらずロシア軍との会見風景は一枚しか撮影させず彼らの武人としての名誉を重んじた。 殉死とその影響 東京・赤坂の乃木神社にある乃木大将の銅像。幼くして一家の生計を支えている少年に感動し、激励し援助している姿。乃木大将の人徳を偲ばせるものである。自刃は、まず静子が乃木の介添えで胸を突き、つづいて乃木が割腹した。割腹後、再び衣服を整え自ら頚動脈と気管を切断して絶命した。遺書には、西南戦争時に連隊旗を奪われたことを償うための殉死と書いてあった。乃木伯爵家は息子は二人とも日露戦争で戦死したため嗣子がおらず、山縣有朋は養子を立てて相続させようと画策したが、乃木の遺言により廃絶している。 この事件は愛国者らの共感を呼び、以後美談として語られるようになった。一方で、より「近代的」立場に立つ者はこの殉死を時代遅れと考えたようだが、公然と批判することはタブーであった。京都帝国大学教授谷本富(とめり)、信濃毎日新聞主筆桐生悠々はいずれも、新聞紙上で殉死批判を展開した結果物議を醸すこととなった。 また乃木の死は森鴎外が『興津弥五右衛門の遺書』を執筆する契機になったといわれ、また夏目漱石の『こころ』のなかでも明治の終焉の象徴的なできごととして語られている。このほか、彼を題材にした文学作品に三島由紀夫の『憂国』、司馬遼太郎の『殉死』、芥川龍之介の『将軍』、渡辺淳一の『静寂の声』などがある。 漢詩 乃木希典は静堂の号を持ち漢詩をよくした。 金州城外の作 山川草木転(うた)た荒涼 十里風腥(なまぐさ)し新戦場 征馬前(すす)まず人語らず 金州城外斜陽に立つ 爾霊山 爾霊山険なれども豈に攀(よ)ぢがたからんや 男子功名克艱を期す 鉄血山を覆て山形改む 万人斉しく仰ぐ爾霊山 爾霊山(にれいさん)は203高地の当字で、乃木のこの詩によって有名になった。 富岳を詠ず 崚曾たる富岳千秋に聳え 赫灼たる朝揮八洲を照す 説くを休めよ区区たる風物の美を 地霊人傑是れ神州 漢詩人としての乃木の代表作。 その他 詠梅 凱旋 富嶽 陣中の作 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Sep 13, 2005 04:58:38 PM
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