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佐藤芳博ブログ~片栗の花とレンゲ草~

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2013.07.10
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カテゴリ:歴史
伊達政宗の参謀役だった片倉小十郎景綱(1557~1615年)の書状が宮城県大崎市の旧家で見つかり、所有者が仙台市博物館に寄託した。現存する景綱名の書状は10通に満たず、同博物館も所蔵していなかった。新たに見つかった書状は、摺上原(すりあげはら)合戦において敵の重臣に帰服を促す生々しい内容に加え、景綱直筆の可能性もあり、歴史研究者からも注目されそうだ。

 書状はことし1月、仙台藩の事跡に詳しい東海林恒英・元仙台市博物館長らが鑑定し、署名から景綱のものと判明した。日付は「六月九日」とあり、政宗が猪苗代湖北岸で会津の芦名氏を破った摺上原合戦=1589(天正17)年旧暦6月5日=の4日後に書かれたことを示している。
 宛先は、芦名氏の居城黒川城(会津若松市)の西にある柳津(福島県柳津町)を守っていた、平田惣右衛門という芦名家の重臣。冒頭の文は次のように書かれている。

 たけつやないつへうち入られ候間、御ふみそれかしみ申候てこゝもとへははしりめくり御はんあひとゝのへこし申候。

 たけつ(打月斎)という伊達家の家臣に攻め込まれたことを訴える平田の手紙を景綱が読み、平田の生命財産を保証する政宗の御はん=安堵(あんど)状=を急いで用意したことを伝える内容だ。
 東海林さんは「景綱は、芦名の家臣が相次いで投降を申し出ていることを明らかにし、平田にも早々に伊達の軍門に下るよう勧告している」と解説する。書状の日付の翌日に黒川城は陥落し、平田一族も帰服した。
 所在が明らかな景綱名の書状は、政宗や景綱の右筆が文面を書き、景綱が花押(書き判)を入れたものばかり。菅野正直仙台市博物館市史編さん室長は「文面はいかにも急いで書いたという感じで、右筆が書く文章と比べ、内容が整理されていない印象だ。景綱直筆の可能性がある」とみる。また「政宗の快進撃の秘密は敵の内部分裂を誘う外交力にあった。景綱は合戦の前から平田に内応を呼び掛けていたのだろう。戦いの舞台裏をうかがわせる好資料だ」と評価する。
 景綱の書状をめぐっては30年ほど前、古美術商が右筆の筆跡とは違う景綱名の書状を仙台市博物館に持ち込んだことがあるが、その後の所在は分かっていない。
 仙台市博物館は、今回の書状を企画展などで公開したいとしている。

 [摺上原合戦]1589(天正17)年7月17日(旧暦6月5日)、伊達政宗と、会津の芦名義広の軍勢が猪苗代湖北岸で繰り広げた合戦。勝ちを収めた政宗は南東北の覇権を獲得し、義広は実家の佐竹氏を頼って常陸国(茨城県)へ逃れて芦名氏は滅亡した。伊達軍勝利の一因として、芦名氏内部の切り崩し工作の成功が指摘されている。


2013年07月10日水曜日

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Last updated  2020.10.05 07:27:52
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