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テーマ:これが私流・・・(312)
カテゴリ:保育・教育
この間から、賞罰教育について何度か書いたんだけれども、
その時の日記で紹介した岸見一郎先生との対話と、 J憲法&少年Aっていう私のよくROMってるサイトの記事から、 さらに思う事や考えたこと、書いておきたい例などが沸いてきたので、 自分自身への覚書のつもりで、ココに書いておこうと思いました。 多分同じようなことの繰り返しになるかもしれないけれど、 懲罰教育の弊害については、何度言ってもいい足りないような気がするんです。 賞罰教育というのを平たく言えば、 「子ども(または大人)の言動を、評価する立場にある者が評価し、 その評価の結果によって、罰を与えたり、褒め称えたりすること」 となると思います。 評価するものは、学校の枠内では教師、大人社会では上司にあたる人であると言えます。 評価する側は、評価する側の価値観で、他人を評価するわけですが、 もちろん評価する側の立場によって、「よい言動」と「悪い言動」の内容も変わってくるだろうと思いますし、 その評価に対する賞賛や罰則も、評価する側の価値観によって変わると思います。 賞罰教育の弊害については、いくつか挙げられます。 保育士という仕事柄、教師と子どもの関係の例が挙げやすいのでその例でいくと、 まずひとつは、子どもたちが、罰を恐れるあまり、積極的な行動に出なくなる事です。 失敗すると、叱られるので、挑戦して失敗するよりは、挑戦しない方がいい、 というような考えの子どもになってしまう事があります。 「失敗は成功の母」という言葉もあるように、 失敗しても、その挑戦した経験と、それから学び取る事に価値があると思います。 その経験から、自分なりの問題の解決法、および失敗したときのダメージ・コントロールの仕方などを生み出していく事が、 人生を生き抜く力となるわけで、 失敗して叱られる事を恐れるあまりに、そういった人生を生きる知恵を学ぶ事なく育ってしまうのは、子どもたち自身の為に良くないと思います。 また、叱られるのを恐れるあまり、失敗してしまったときや、助けが必要なとき、 助けを求める事が難しくなる、ということもあると思います。 また、自分で考えて行動するよりも、指示待ち人間になってしまったり、 他人がどう思うか、どう反応するか、ということのみをベースにして行動するようになったりする事もあると思います。 不祥事と呼ばれるようなことを会社内でしてしまった場合や、 そこまで大げさではなくても仕事上ミスをしてしまった場合に、 上司に叱られるのを恐れて、相談すべきときに相談せず、 事が大きくなってしまうようなことが、大人社会でもあるとおもいます。 ふたつめは、罰を下されると知っている状況でしか、「問題行動」のコントロールができなくなる、ということです。 子どもたちは、問題行動を取らない判断をするときに、 「なぜそういった行動をしない方がいいのか」を考えると思います。 そのとき、賞罰教育の中にある子どもたちは、理由として、 「罰を受けるから」しない方がよい、と判断する事が出てきます。 しかしそうなると、罰を受けなければ、どんな行動でも取ってよいのか、 という話になってしまいます。 私の同僚に、とてもしつけに厳しい先生がいます。 その先生のクラスは、いつも静かで、 「問題行動」と呼ばれる行為が少ないので、保護者の方からも、 ボスからも、評判が良いのです。 が、彼女が病欠しているときや、午前、午後の15分休憩のとき、 彼女が一歩教室の外に出ると、問題行動は急増し、 教室の中で叫び合う、教室中をはしりまわる、おもちゃを投げ合う、 叩きあいをする、など、 子どもさんの安全を守る点からもしない方がいい行動をしたり、 代行の先生の言うことを全然聞かなかったり、というような事になってしまいます。 それもこれも、そもそもこの厳しい先生のクラスの子どもたちは、 「なぜ」そうしてはいけないのか、を理解するよりも、 「叱られるから」それを恐れて、その先生のいう事を聞いていたために、 問題行動が少なかったからで、 それでは根本的な教育としては成り立たないと思うのです。 叱る人にばれなければいい、というような風になってしまいます。 大人の世界でも、同じようなことがいえる場面も多いと思います。 「叱られるから」しないのではなくて、 「なぜしない方がいいのか」を理解したうえで、 「ではどうするべきか」という自分なりの答えを探し出せる、 そういう子どもになって欲しいのです。 賞罰教育では、例に挙げた先生のクラスの子どもたちの様に、 即効性はありますが、根本的な教育という面では効果が無い上、 単に悪知恵が付いてしまったり、 叱られたくないからと嘘をつくようになってしまったり、 悪影響の方がはるかに大きく、長期に渡ってしまいます。 J憲法&少年Aのサイトで、この間の電車脱線事故の記事があり、 「死者100名を超える大惨事を引き起こしたJR西日本の脱線事故に関して、JR西日本の労務管理の問題点が浮上してきている。ミスをした運転手には、事実上の懲罰に等しい研修が課せられ、同僚の前で恥をかかせ、管理職の前でひたすら土下座のような謝罪文を書かされていたという。20代前半の若い運転手たちは、ろくに現場教育も無いまま、きついプレッシャーの中で、多少の安全運転を犠牲にしてでもノルマを果たそうと必死になっていたようだ」 とあります。 これも、賞罰教育の端的な例だと思います。 罰が嫌だから、遅れないようにする、 遅れてしまったら、ばれて罰を受けるのは嫌なので、 いつもよりもスピードを上げて、遅れを取り戻そうとする。 聞けば、90秒の遅れだったとか。 たいした事の無いように思われる90秒が、 運転手たちに取っては、安全運転をも犠牲にせざるを得ないような、 屈辱的な罰を受けるか受けないかの大きな数字であったようです。 間違った事をしてしまったときや、失敗してしまったときに、 こんな罰のあるような場合、素直に相談できないだろうと思います。 本当は、相談しあって、よく無い点は解決していけるような関係を築く事が大切であるのに、と思います。 その点で、「評価する側」の者の、意識の向上が必要だと思うのです。 助けが必要なとき、意見が必要なときに、 叱られる事を恐れる必要なく相談してもらえるような関係を築く努力が必要です。 そのために、「叱ってはいけない」と思うのです。 評価する、という価値観をいっそなくしてしまったほうがいいと思うのです。 失敗しても、それをどうやって最大限にダメージ・コントロールし、 次の成功へ結びつける事ができるのか、 それを考えるお手伝いをする方が、罰を与えるよりもはるかに有効だと思うのです。 保育士という立場柄、即効性のある賞罰教育を見る機会も多く、 それが根本的な解決にはならないという例も、賞罰教育の例と同じだけ見ます。 私自身は、できるだけ叱らない、褒めないように、修行中です。 とても根気のいる作業です。 実践し始めて、やはり賞罰教育というのは、子どもの為である以前に、 教師(または保護者)の為にあるものだな、ということです。 叱り、罰を与えて終わりにする方が、時間的に遥かに効率的ですし、 何度も書いているとおり、即効性はあるからです。 保護者の方々からも、「どんどん叱ってください」と言ってこられる事も多いのですが、 「いや、私は叱りません」というと変な目で見られてしまいます。 そこをどうやって対話をして理解してもらえるかと言うのも大切だと思います。 保護者の方の「叱らない、褒めない」l接し方に対しての理解・協力が深まった方が、 家庭との連帯で子どもさんの成長のお手伝いをする事ができるからです。 でも、保護者からの理解・協力が得られないからといって、諦めません。 子どもは一週間の大半を、学校または保育園で過ごします。 よって必然的に教師・保育士の、子どもに与えるインパクトはとても大きいわけで、 家庭の理解が得られないからこそ、学校にいる時間でできる限り、 ポジティブなインパクトを与えていく努力が必要だと思うからです。 5歳児を逮捕させてしまうような、教育者としての立場を放棄するような事があってはならないのです。 ただ、ひとつ思うのは、教師一人に対する子どもさんの数、の与える影響です。 先にも書いたとおり、「叱らない・褒めない」教育は、根気の要る作業です。 子どもさんに、自分で考えて答えを出してもらうプロセスを大切にするため、 叱る教育に比べて時間も随分かかります。 よって、お預かりする子どもさんの数が多ければ多いほど、 即効性のある賞罰教育に頼りたくなるものだと思います。 その点は学校教育のあり方自体を見直していかなければいけない、 教育庁・文部省もかかわる大々的な変化が必要になる事かもしれません。 チーム・ティーチングという事が話し合われて久しいですが、 日本では導入されているのでしょうか? とてもいいアイディアだと思います。 自分の子どもたちの教育の方では、子どもの数を心配する事はあまり無いと思うので、 自分自身の根気と、コンスタントな努力ですぐ始められることだと思います。 最初のうちは、難しいです。 慣れてきてからも、思わず怒鳴ってしまいたくなることもあります。 それを事前にキャッチする練習をするのも大切だと思います。 今すぐに、社会全体が変わることはありえませんが、 私自身や、私のHPを見て考え方を変えてくれるかもしれない方々、 そういった小さな力が集まって、だんだん広まっていけば、 もしかしたら社会全体で賞罰教育を見直す大きな力に変わっていくかもしれない、 というような淡い期待と、 もしそんな大きなことにならなくっても、 一人や二人でも、共感してくれて、お子さんに対する接し方を見直してくれる方がいらっしゃれば、 それでもとても嬉しいと思えるのです。 だから、しょっちゅうしつこいし、まじめな内容多すぎるけど書いちゃいました。 えへ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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