2011/06/24(金)23:34
ぬき難い奴隷根性?杞憂でしょうか……。
今に始まった事ではないのですが
私はかねがね私たち市民は本当に「独立自尊」の
誇り高い「自由人」を志向しているのだろうか ― という
疑問を持っています。疑問の余地などない。そう、きっぱりと否定
する声に劣らないほど、いやいや、我々の大半は「奴隷根性」を
後生大事に抱え込んで、梃子でも手放そうとしない。そんな風にも
思われる。一体全体、どっちなのか?真相はその中間にありそうです。
ここまで書いてきて、ふと、私が何について不満を漏らしているのか
いぶかしむ方の顔が浮かんできました。そうでした、人々は
意識的には奴隷根性などとは関わりを持ってなどいないのですね。
無意識の内に、知らず知らずの内に私の言う奴隷根性をシッカリと
抱え込んでいるわけですから、事態は想像以上に厄介な、また
錯綜した、一筋縄では決していかない困難さをともなっているので。
自由人と一口に申しますが、そのあり方はそれ程容易でも、簡単でもない。
奴隷状態でいたほうがよっぽど気楽で、快適とさえ形容できる。歴史的に
見て来ますと、私たち現代人の血液の中には色濃く奴隷の血が混ざっているのでしょう。
そして、まるで天から降って湧いたように「自由なる市民」という
まことに有難い特権を与えられた。原始的な血液は意識下で「有難迷惑」
の悲鳴を上げ、有害なガス状の不平不満を頻りに噴出させている。
ざっとこんな風に表現してみましたが、そんなに的外れの現状認識とも
思っておりませんが、私の杞憂であって欲しいとの密かな願いが
無い事も無いのですよ。奴隷とは、プライドや世間体をかなぐり捨てて
しまうならば、それが出来てしまうならば、ある意味ではこんなに
気楽で快適な境遇はないのです。ご主人さまの命令を忠実に遂行している
限りは生命の維持は保証され、将来の様々な不安に自ら対処する労から
完全に開放されている「素晴らしい」存在。何を好んで独立と言い、プライド
などという面倒で厄介な代物に拘り続ける必要があろうか? ― 雑駁
極まりない立論でありますが、皆さん方がご自分の胸に手を当てて
虚心に反省されるならば、今述べたような根性の腐りきった心情と
満更縁もゆかりも無くは無いことを自覚されるでしょう。それが、わたしが
指摘している奴隷根性のありようなのですね。始末にほとほと困る
所以なのですよ。みなさん、他人事ではありません。現代人は誰でも
この世に生を享けた瞬間から自由人として躾けられ、自由人として
教育を受けなければならない「運命」にあり、それ以外の選択をまったく
許されては居ないのです、驚くべきことに!えっ、そうだったの、今の
いままで知らなかった、気がつかないでいた。ほんとビックリ ― そんな
貴方・貴女たち、真面目に生きることを考える習慣を身につけるよう
精々頑張ってください、今からでも少しも遅くはないので……。