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前回、書いたテーマが私・草加の爺にとって
余りにも自明すぎる事でしたので、一体何が言いたいのか まるでチンプンカンプン、アイ ドン ノー、ということになって しまったようです。まことに申し訳ありません。心を入れ替えまして 少し詳しく、具体的に申し上げたいと思います。と、言いますのも これは「大人世代にケチをつけ、物申す」この欄のボヤキの 根幹をなす重大な問題だったからです。「お恥ずかしい」と言いながら 質問して下さったお若い学生さん(?)に感謝申し上げます。 議論というものは一方通行では、張り合いもなければ、何の成果も あがらない不毛な、そして無意味なものになってしまいます。気が済めば 良いと言う様な割り切り方もありますが、それでは詰まりませんね。 前置きが長くなりました、奴隷の解説から始めます。人類の歴史を さかのぼって閲覧してみますと、戦争に継ぐ戦争といった時代が続く 様です。何故こんな風に大袈裟な記述になるかと言いますと、大和民族に はっきりとした奴隷制度があったのかどうか、寡聞にして分かりませんので 西洋主体の、それも古代の歴史に逃げたわけです。戦争があり、負けた国の 民が戦勝国の奴隷として使役されるようになる。奴隷の子は奴隷として 代々資産の一部として家々に引き継がれる。主人も奴隷も、もともとは 同じ人間なのですが、長い世代にわたって家畜のように主人から 使役され続けているうちに、所謂「奴隷根性」なるものが奴隷たちの 内部に根深く植え付けられてしまう。そうなると自由人たる御主人さまと 使用人たる奴隷の間に画然とした差別ができてしまう。もともとは 同じ人間なのですが。そういえば昔のロシアには農奴と言う制度がありましたね。 教育は勿論、食べ物にいたるまで主人たちとは格段の差がつけられる。 そうゆう境遇に生まれながらに育った奴隷の子供がどんな精神構造を 持つに至るか、ちょっと想像してみて下さい。またまたロシアを引き合い に出しますとチェーホフの書簡だったかに「奴隷の血を一滴一滴と搾り出すように」 身内から意識的に排除して勉学に励んだ、若き日の苦悩の体験談もありますね。 現代の日本に育った私には実際に「奴隷」を目にしたりした体験は皆無 ですが、「奴隷根性」と形容するような心根のお人には、イヤというほど お目にかかっています、残念至極ながら……。それで、前回のような 一人合点な文章になった次第。ですから、私の言う「奴隷根性」とは 周囲の権威(それはあらゆる形、機会を捉えて私たちを屈服させようと 待ち構えている、目には見えないが恐ろしい、実に恐ろしいもの)に 無条件で従う従順さと、無気力を最大の特徴とする主体性の無さを 兼ね備えている。無論、自らに由るー自由人としての教育を受けておりませんので 当然、その自覚は持っておりませんね。ただ唯々諾々と「権威」ある 大樹に寄り添い、「権威」の命令に服することしか頭にない。 ここまで書いて参りましたが、このテーマはまだまだ無限に近く 物申すことがありそうです。どしどし、ご質問なり、ご意見なり お寄せ下さい。また、近く開設予定の「四つの幸せ塾」でも具体的に 詳しくご説明させて頂くつもりでおりますので、どうぞ奮って ご参加ください。お待ちいたします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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