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草莽の記    杉田謙一

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seimei杉田

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2023.04.23
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金曜日 朝、日進の友に4月29日二時からの三ヶ根殉国七士慰霊祭案内と4時半からの昭和の日奉祝講演会の案内を150部印刷して届ける。諸資料整備をしてから豊橋選挙応援。昨日は朝5時半に家を出て6時から家康公についての話を聞き、七時半より豊橋に向かう。すぐに事務所の応援、声をからして支援を叫び続ける。

皆さん選挙最終日を迎え緊張感をもって活躍くださる。

夕刻7時からと8時からの2か所の個人演説会会場のお手伝い。

 果たしてどこまで支持が広がったか。いよいよ今日が投票日。

 

市議選では珍しく国のため国民のため投げ出された方々について感謝する応援演説

を伺った。

インパール作戦での日本兵の信じがたき苦難の戦いとその慰霊についての体験を語られた遺族会会長様のお話。感激に胸迫るものがあった、

 

日本兵がいかに激烈に戦ったか。

インパールのすぐ北方、拉孟・騰越の守備隊の戦いの様子は決して忘れてはならぬもの。チャイナは確かに戦勝国にはなっているがわが軍は対チャイナ戦ではほぼ完勝。決して武器に勝ったわけではなく使命感の強さが最大の要因だった。

以下その様子を祖国と青年誌より引用させていただく。

 

 

 

物資弾薬窮乏の中、来援機の安全を心配した仁将
わが飛行機が勇敢なる低空飛行を実施し、これがため敵火を被るは守備隊将兵の真に心痛に堪えざるところ、あまり、ご無理なきようお願いす。 (拉孟守備隊長金光恵次郎少佐打電)

(中略)

拉孟守備隊は1280人、それに対して押し寄せる中国の雲南遠征軍は4万8500人。拉孟守備隊の隊長は野砲兵第56連隊第3大隊長の金光恵次郎砲兵少佐だった。戦闘が行われたのは昭和19年の5月から9月である。当時インパール作戦が展開されており、その進撃ルートの北、要衝の地に拉孟・騰越は位置していた。拉孟・騰越の敗北は、インパール作戦の退路遮断を意味していた。

 拉孟北方での戦闘が開始されたのが5月11日、拉孟に対する雲南軍の第一次総攻撃は6月2日~7日、雲南軍7千を壊滅し、師長を戦死させた。更に6月14日から21日の戦いでも、甚大な被害を与えた。雲南軍は最精鋭の栄誉第1師(兵力8千・山砲6門・迫撃砲64門)を投入して包囲する。

友軍機による弾薬補給に対し、守備隊は「今日も空投を感謝す、手榴弾約百発、小銃弾約2千発受領す、将兵は一発一発の手榴弾に合掌して感謝し、攻め寄せる敵を粉砕しあり」と打電している。7月4日~14日に雲南軍第二次攻撃、ロケット砲を始めとする新兵器も使って猛攻撃をかけるが陣地の一箇所も抜けず、損害は第一次にも増した。守備隊は、「今までの戦死二百五十名、負傷四百五十名、但し、うち休息百名を含む。片手、片足、片眼の将兵は皆第一線にありて戦闘中、士気きわめて旺盛につき御安心を乞う」状態だった。

7月20日より雲南軍第3次攻撃。7月下旬には、守備隊は重軽傷者も含め三百数十名となる。8月12日、拉孟守備隊に対し、制空権を奪われながらも弾薬補給を行わんと友軍の飛行隊が危険を冒して来援した。

その時、金光守備隊長は司令部宛に「わが飛行機が勇敢なる低空飛行を実施し、これがため敵火を被るは守備隊将兵の真に心痛に堪えざるところ、あまり、ご無理なきようお願いす。」と打電した。守備隊にとって弾薬はのどから手が出るほど欲しいものである。しかし、自分達の為に友軍機を危険に晒してはならないとの「仁愛」の情が金光隊長をして打電させたのだ。

8月23日の打電には「其の守兵片手片足の者大部」とある。それでも守備隊は9月7日まで戦い抜き持ちこたえた。

窮地にあっても他者に迷惑をかけず
ワガ守備隊ヲ救援ノタメ、師団及ビ軍ガ無理ナ作戦ヲセラレナイヨウ特ニオ願イス(騰越守備隊太田正人大尉訣別電報)

 騰越の守備隊は、2025人(隊長 蔵重康美大佐)、押し寄せる中国雲南軍は6個軍17個師団からなる7万2000人であり、実に36倍の敵だった。

19年6月27日に雲南軍は総攻撃を開始する。8月13日には、敵爆撃機の爆弾が司令部壕を直撃し、蔵重連隊長以下32人が戦死した為太田正人大尉が指揮をとった。

8月14日、雲南軍第二次総攻撃。太田大尉は敵の二個師団を相手に孤軍奮闘、更には「全員志気旺盛ナルニツキゴ安心アリタシ、ワガ守備隊ヲ救援ノタメ、師団及ビ軍ガ無理ナ作戦ヲセラレナイヨウ特ニオ願イス」と打電している。自らに与えられた任務を精一杯果たし、他に迷惑を及ぼさないという高潔なる責任感が横溢していた。

8月19日、雲南軍第三次総攻撃。それでも持ちこたえた。だが、守備隊には五体満足な者は少なく、負傷者も含めても六百名程度まで減少していた。

9月5日、雲南軍第四次総攻撃、そして、12日太田大尉は「現状よりするに、一週間以内の持久は困難なるを以て、兵団の状況に依りては、13日、連隊長の命日を期し、最後の突撃を敢行し、怒江作戦以来の鬱憤を晴らし、武人の最後を飾らんとす。敵砲火の絶対火制下にありて、敵の傍若無人を甘受するに忍びず、将兵の心情を、諒とせられたし」と訣別電報を発し、翌日騰越守備隊は玉砕した。

 雲南地方の日本軍を完全制圧した後、支那軍の蒋介石総統は第二十集団軍司令官霍中将に対し次の特別訓示を行った。

「戦局の全般は、わが軍に有利に展開し、勝利の曙光ありといえども、その前途いまだに遠く、多事多難なるものあり。今次日本軍の湖南省における攻撃作戦及び北ビルマ、怒江方面に対するわが軍の攻勢作戦の戦績をみるに、わが中国軍にしてきわめて遺憾にたえざるものあり。わが軍将校以下は、日本軍拉孟守備隊、あるいはミートキーナ守備隊が孤軍奮闘、最後の一兵にいたるまで、命令を全うしある現状を範とすべし」

 又、拉孟の戦闘終結後、雲南軍司令官李密少将は「私は軍人として、この得がたい相手と戦い得たということを誇りにも思い、武人として幸せであったと思う。」「かれらは精魂をつくして戦った。美しい魂だけで、ここを百二十余日も支えた。」と述べ、戦った日本人たちを丁重に葬ることを指揮下の将兵に命じた。

引用以上

本当に尊きことであります。命をいただいている幸いを思わずにはいられません、

 

豊橋からの帰宅は10時半。よって我が家での会合は延期して今朝の9時から。

講演会準備打ち合わせをなす、

 

今から入院中の友を見舞って本の差し入れをなす。

次いで豊橋御嶽社清掃に。27日にいお祭りをしてくださるとのことですので急ぎ清掃を仕上げねば。






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Last updated  2023.04.23 11:46:17
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