その6(10話)51【父の通院】 父の通院に同行した。市内の胃腸科病院だ。 高齢のため、内臓が弱っているようだ。 診察室に入るなり、父は症状を話すどころか愚痴り始めた。 「先生、聞いてください。 息子が、『おやじ、ボケたなあ』なんて言うんです。 それで昨夜も口げんかして……」 私の幼なじみの医師、牧野も困っているようだ。 まったく、オヤジのやつ。だいぶボケが進んだな。 昨夜、私と口げんかしたって? 冗談じゃない。そんなこと、できるわけないだろ。 私は二年前、還暦をまぢかに過労で死んでいる。 きょう、心配でついてきたとはいえ、 私は、九十二歳になる父の背後霊なのだから。 ------------------------------------ 52 【変装】 スパイ採用面接会場にて。 テーブルを挟んで、向かい合って座る担当官と主婦。 担当官、履歴書と主婦の顔を交互に見ながら、 「なになに。数秒で変装ができるとな。では、やってみてください」 主婦、担当官を連れて化粧室に行き、洗面して化粧を落とす。 「合格!」 ------------------------------------ 53 【フコウ ノ テガミ】 冷夏の午後、葉書一通、来たる。 毛筆にて書かれた文字。 差出人不明。 裏返す。 『よく揉んで柔らかくし、 中央部をお尻に当ててください』 「拭こう」の手紙だった。 ------------------------------------ 54 【あいさつ】 著名な、いや、大御所といってもいい作家が、 とある授賞式の舞台に上がった。 足がふらつき、つえを持つ手がふるえている。 表彰状と小さなトロフィーをうやうやしく受け取ると、 スタンドマイクを前にし、観客に頭を下げた。 「このような賞をいただき、たいへんうれしいです。 過去にいただいた直木賞や国民栄誉賞よりも、 今回いただいた『読者が選ぶ年間ナンバー1書籍賞』のほうが ずっとうれしいです。 これでやっとスタートラインに立てたような気がします」 一瞬の静寂後、割れんばかりの拍手が場内を満たし、 しばらく鳴り止まなかった。 ------------------------------------ 55 【だるころネエちゃん】 ラーメン屋のカウンター席にて。 「だるまさんがころんだ。だるまさんがころんだ。 だるまさんがころんだ。だるまさんが……」 「ヘイ。おまちぃ~!」 「お。きたきた。 よお、ネエちゃん。横でブツブツ言わねえでくれよ。 ラーメンがまずくな──」 「なによお~! なにも知らないくせに! わたしが唱えるのやめたら、みんな止まっちゃうのよ。 もう、ひとの苦労も知らないで。あったまくるぅ。………。 ズルズルズル~。ごちそうさまあ~」 「──るぅうわっ! 消えた! どこ行った? あっ! ドンブリが空っぽ。つゆもねえ」 ------------------------------------ 56 【耳をすませば】 平日。 森林公園。 静かだ。 カッコウが鳴いている。一羽。 音は、それだけ。 若い女性がベンチから腰を上げた。 「そうよ。そうだわ。わたしは過去にこだわりすぎてた。 たいせつなのは、今、そして、未来よ」 高校生が小道で立ち止まる。 「学校いこうっと」 ちっさな子がママの手をひいた。 「だっこぅ!」 ------------------------------------ 57 【夫婦の会話】 「ね、あなた。そうやって新聞読みながら食事するの、 からだにわるいんだって」 「ふぅ~ん」 「さっきさ、テレビで、あなたの会社火事だっていってたわ」 「ふぅ~ん」 「それからね、けさ、大阪に核ミサイルが落ちたんだって。 西のほうから跳んできたそうよ」 「ふぅ~ん」 「あっ、コーヒー、砂糖入ってないわよ」 「ブハァア! はやく言え!」 ------------------------------------ 58 【エレベーター】 病院の三階からエレベーターに載ると、エレベーターガールがいた。 あれ、おかしいぞ。ここはデパートか? 「下へ参りま~す」 ドアが閉まり、下降し始めた。 一階を通過した。 下降し続けている。 「あれ、へんだなあ」 「ちっともへんじゃありません。手術が失敗したのです」 よくみると死神だった。 ------------------------------------ 59 【毛糸】 わたしは水色の毛糸。 むかし、洋品店の棚にいた。 裁縫好きの加代さんに買われてセーターになった。 加代さん、結婚して、美雪さんが生まれた。 わたしは美雪さんのチョッキになった。 美雪さん、高校の先輩の雄一さんに恋をした。 わたしは襟巻きになって雄一さんの首に巻かれた。 雄一さんと美雪さん、結婚して恭介くんが生まれた。 わたしは二つに分れ、ひとつは恭介くんの帽子に、 もうひとつは加代さんの手袋になった。 ------------------------------------ 60 【読書未練】 雨の日曜日。 書斎の机で本を読んでいると、ノックもせずに息子が入ってきた。 書棚から分厚い本を引っぱり出し、その場に腰を下ろした。 本の終わりのほうを開き、挟んであったしおりを取った。 大輔、おまえ、その本! ま、まさか……。 大輔はこちらを向き、首を伸ばした。パパだって、その本……。 夕方まで二人は読書を続けた。 背中で、本を閉じる音。ふりむくと、満足げな顔。 そろそろ帰ろうか、婆さんや。そうだねえ、爺さんや。 借りていた息子と孫の体から抜け、昇っていく。 |