異論・極論・直言――マスコミが言わない解説、提言

2010/07/18(日)11:44

滑稽なマスコミの臓器移植論議

 (改正臓器移植法の骨子は2つ)  改正臓器移植法が施行されたことにともない、多くの新聞、テレビなどのマスコミが臓器移植の話の特集を組み、かなりの時間やスペースを割いて、報道している。  しかし、その報道の仕方は、賛成派、反対派の両方の意見を紹介し、取材したという記者、リポーターが「難しい問題です。考えさせられてしまいます」というばかりで、多くの国民の誤解と混乱を与えるものでしかない。  今回の改正のポイントは2つで、1つは、臓器提供が15歳以下の人からも可能になったことである。これまでの日本の移植では、提供者(ドナー)は15歳以上ということになっていたために、15歳以下、特に子供への移植が事実上できなく、死を待つか、多額の費用を支払って海外に行って受けるしかなかったのが、可能になったことである。  もう1つの改正点は、提供者が脳死になった時に、事前に、提供の意思表示がない場合、親の判断で提供ができるということである。日本では、海外と異なり、ほとんどの人が脳死の時に、臓器を提供するか、または拒否するかという意思表示をしていない。このため、提供が進まないという事情があるための措置である。 (WHOの圧力で成立した改正法) 日本では、今回の改正ではなく、当初の臓器移植法案の審議でも、もめにもめ、法案がいつまでも成立せず、難産の末、やっとできあがった。その時、反対派を説得する1つの材料になったのが、子供を提供者にしないということだった。しかし、このために、子供への提供が非常に難しくなり、移植を待てずに死んでいく子供が多くなるということにつながった。  今回の改正法でも、議論が紛糾し、成立が非常に難しい状態が続いた。しかし、WHOからの1つのメッセージで、それまで紛糾していた国会がぱっとまとまり、改正法案が成立したのである。  WHOのメッセージは簡単である。日本では、国内での移植が難しいので、海外に出て移植を受ける人が多く、いわば、金で外国人の臓器と、機会を買うということになり、それは駄目で、自国内でしっかり提供者が出る仕組を作りなさいうことを言ったのである。  では、WHOはなぜ、そんな勧告をしたのだろうか。まず、どこの国も臓器が余っている訳ではなく、順番待ちの人がいる。それを海外から来て、金を出して優先してもらうというのはおかしいということである。  また、臓器をヤミで売買する組織があり、日本のように金で外国の臓器を買うかのような行動は、そうした組織を助長しかねないということが次の点である。  そして、何よりも、最大のポイントは、「日本はいつまでも、世界の常識から逸脱したことをやっているのだ。いい加減にしろ」といういらだちである。 (「脳死=人の死」は世界常識) 世界各国が密接に結びつきあった現在では、主要国の1つが、世界とまったく異なった基準で運営されると、他の国に大きな影響が出るので、国際機関はあまりに非常識なことは是正しろと勧告してくる。  今回の参議院選挙の後、すかさず、IMFが消費税の段階的、速やかなアップをし、少なくても15%程度にすることを勧告してきたことなどは正にこれであり、「あなた一カ国のことではないのですよ」ということを言われる時代なのである。  臓器移植について、WHOや世界の医療関係者が日本にいら立っているかと言えば、その議論が世界よりも、40年も遅れているということなのである。  人の死は昔はどこの国も心臓死だった。それが医学の進歩で脳の仕組み、心臓の意味などがわかってきて、1960年代に死についての議論が盛んになってきた。そして、アメリカのハーバート大学が人の死は脳死であり、脳死の判定基準はこういうものだという、いわゆるハーバート基準を作った。  これを受けて、1968年に、オーストラリアのシドニーで開かれた世界医師会総会で、「死に関する声明」であるシドニー宣言が出て、世界の医療関係者が「人の死=脳死」ということを採択したのである。  医療技術の最先端を言っているアメリカでは、1970年代に、大統領の諮問委員会を作り、死についての国をあげての議論をした。この委員会は医療関係者だけでなく、法律家、宗教家、政治家、社会学者など多くの分野から人が出て、マスコミを通しては勿論、全米各地で討論会を開催して、死についての議論をした。  そして、この国をあげて、一般国民を巻き込んでの議論の結果、法律家も宗教家も「人の死は脳死」という結論となったのである。これが1981年のことである。今から30年程前のことだ。  これを受けて、世界の各国でも同じような議論をして、「脳死=人の死」という世界の常識が欧米だけでなく、中東、中国を含むアジアにも定着したのである。 (議論を混迷させるマスコミの取り上げ方) 日本で臓器移植問題が議論される時に、アメリカの大統領委員会のような徹底した議論をせず、事実誤認の話がまかり通ることが、混乱の最大の原因で、それを更に拡大しているのが、マスコミである。  臓器移植に反対する人のポイントは2つである。1つは脳死から生き返ることはあり、脳死=人の死とは認められないということ。2つ目は、今回のような改正法案が通ると、死んだ後に勝手に臓器が取り出され、大変になるということである。  これは2つとも完全に間違っているのだが、それをマスコミが大々的にとりあげるので、何も事情がわからない一般の人は、そうかと思って不安になり、話がややこしくなってしまうのである。  まず、脳死から人間が生き返ることはあり得ない。脳死から生き返ったということを言い、NHKにその例の患者を示して、大きくとりあげられた、ある大学教授がいる。このNHKの番組はその後も、臓器移植の議論の時に、反対派の論拠としてよく使われた。  しかし、そのことはNHK、また、その他のマスコミは一切報道していないが、このことが医学会で取り上げられ、この大学教授は、「脳死からの生還などあり得ない。おかしい」という質問にまともに答えられず、「自分は脳死から生き返ったとは言っていない。NHKに勝手のそう取り上げられた」と発言して、NHKの番組の内容を否定したのだ。 (脳死からの生還はあり得ない) 人間の体は全体が一度に死ぬ訳ではない。早く死ぬ場所もあるし、心臓が止まった後もしばらく生きている組織もある。死人の髪の毛が伸びることがあるということなどは報告されている。  かつての「心臓死=人の死」が否定された理由は簡単である。医療の発達で、人工呼吸器が出現し、進歩してきたので、その人が死んだ後も、人工呼吸器を動かしていれば、体に血液と酸素は運ばれ、それで体は温かさを保つことができるようになったのである。  しかし、死者にいつまでも、人工呼吸器をつけておくのは死者に対する冒涜でもあり、そのために、何人もの医療関係者がそれに従事しないといけない不合理さが言われ、死と判定された場合は、人工呼吸器を止めるのが世界の常識となった。  人工呼吸器で左右される心臓死と異なり、脳死の定義は明確であるし、医学的に判定できる。脳死になると、脳が溶け始める。そして、体は血液や酸素が行く場所と行かない場所が出てくるので、医療関係者が体を見ればわかる。  脳死から生き返ったという話は、先のNHKで取り上げられた日本の例もそうだが、きちんとした脳死判定を行わず、「脳死に近い状態」を「脳死」と判定したに過ぎない。 (1つのルールで縛ろうとする愚) 反対派が言っているもう1つの論拠である、意思に反して、勝手に臓器が取り出されるという話も本当にナンセンスである。  臓器移植のルールは、死後、臓器を他人にあげる自由、あげない自由。他人からもらう自由、もらわない自由の4つの自由が大原則である。  人間には、それぞれ、意見や主義主張がある。だから、臓器を提供してもよいと思う人もいるし、提供したくない人もいる。もらう側も、もらっても生きたいという人もいれば、そこまでして、生きたくないという人もいる。  それを、1つのルールで縛ろうとするのが、反対派の人の発想法で、他人の行動を規制する権限があなたにありますかと、筆者は言いたい。  あげたくない人、自分の臓器を死後、取り出してほしくない人は、「ノー」の意思を明確に表示すればよいだけである。成人だと、運転免許書の裏に意思表示をすることができるようになっている。  未成年の人については、それこそ、反対派が「提供拒否カード」のようなものを作り、それを普及させれば、自分の意思に反して、死後、臓器が取られるという心配はなくなる。反対をするだけでなく、こうした具体的な行動に出る方が意見が違っても余程尊敬できるが、日本では反対する人は声だけ発するが、行動は起こさない。 

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