戦国ジジイ・りりのブログ

2012/08/30(木)17:57

山口編(25) 興隆寺/義隆の梵鐘

旅日記(中国)(188)

大内氏が出版事業も行っていたことは大内文化のところで書いたけど、 これらの本は「大内版」あるいは「大内本」と呼ばれた。 興隆寺でも法華経全8巻が開板されたが、この板木は現在でも完存しており、 山口県文書館の所蔵となっている。 これは桜材の板木59枚の両面に妙法蓮華経(法華経)の全文が彫られたもので、 完成までに7年かかったという。 実際に印刷に使用されたものなので、一部欠損してたり、 表面が黒っぽくなったりはしてるけど、大内文庫とともに もはやその全貌がわからなくなってしまっている大内本の確かな証として 貴重な歴史の証人であることに変わりはない。 さて、興隆寺・妙見社と大内氏のかかわりについていくつか書いてきましたが、 唯一にして最大の大檀那・大内氏が滅ぶと、興隆寺も当然の事ながら、 衰退を余議なくされてしまう。 しかし、毛利氏の庇護はいちおう受けられたので、 幸い廃寺になることは免れた。 そんな歴史を感じさせるようなグッズが、妙見社の外に見ることができる。 ↓これは社の蟇蛙ね。 「一文字三つ星」の毛利家家紋は有名ですわね。         ↓だから、お願いだから、大内菱の瓦を無造作に下に置かないで 欲しいんだけど~ つい出来心で、無意識のうちに持って帰ってしまいそう・・・             妙見社の裏手、本殿はこんな感じだった。           それから、お狐様もおわす。           摂社の管理ってのは、神社によってまちまちだけど、 ここは綺麗に祀られてるな。 さっすが、興隆寺 さて、建物関係はこれで終了。 いよいよアレじゃ、ア・レ                      【国指定重要文化財 興隆寺の梵鐘   この梵鐘は、室町時代周防長門など七か国の守護であった大内義隆が享録5年(1533)に   大内氏の氏寺興隆寺に寄進したものである。     総高が189センチ、口径が111.8センチの巨鐘で、朝鮮鐘の影響を多く受け、   乳の間四区の間に四天王、草の間に雲龍紋様を鋳出すなど、随所に装飾がにぎやかに   つき、大内文化を代表する工芸品である。   銘文から筑前葦屋(福岡県遠賀郡芦屋町)の大江宣秀の作であることがわかる。     興隆寺は大内氏の氏寺で、大内氏全盛の時は非常に栄えたが、大内氏滅亡後は衰え、   明治になり堂塔もなくなった。】   (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換) この旅の計画を建てた頃は、ホントに自分でも笑っちゃうくらい 大内氏に関するロクな知識もない頃でね。 ただ、最初の頃に書いたように、山口市は大内家関連の史跡とか 歴史に関するサイトが充実してるので、そこから行き先をピックアップしていって、 その後で個別に調べたりしながらちょっとずつ覚えていった感じだったかな。 なので、そもそもここ興隆寺を予定に組み込んだのは、 「義隆の梵鐘がある!」 ってその一点にかかってた。 その鐘が、眼の前にある。 鐘についての知識はないけど、確かにこの鐘を見た後で他の和様の鐘を見ると、 「やっぱ義隆の方がいい・・・」 って思いにはなるよな。 まあ、もちろん好みの問題ではあるけど。 で、解説にもありますが、この鐘、デカイんです。 こんなデカイのを吊り下げるのも大変だよな~。 これでビジュアル・大きさと鐘の良いところが2つ並びましたが、 鐘は本来、音を鳴らす法具。 んで、義隆の鐘はどうかといいますと・・・ 菜香亭で買ったDVDに、この鐘の解説がありましてね、 鐘を鋳造する時に、内側と外側の型がずれないようにするために使われた金属を 「型持(かたもち)」というそうで、鐘の内側に磁石を聴診器みたいに当てて、 型持の位置を調べる様子が映されてた。 それによると、義隆の梵鐘に使われた型持は16箇所。 デカイせいもあるんでしょうけど、それだけじゃなく、  厚さを均一にして、良い音色を出そうとする職人のこだわりと、  技術の高さがうかがえる としている。 大江宣秀さんについては「山口編(2)」で簡単に書いてますが、 今をときめくお金持ち・・・いえ、権力者と、人気の鋳物師の夢のコラボにより生まれた 重要文化財のこの鐘、一般の参詣者が撞けるんです。 しかもタダで(笑)。 まさか撞いていいとは思ってなかったので、ちょっとびっくりしたね~。 ただし、「強く撞かないでください」と書いてあるので、 ありがたく、控え目に撞かせていただきました。 いや、もう完全に鐘がトラウマになっちゃってるよ・・・ 以前は、鐘撞こうとか思わなかったもんね ひとまず、境内はこれで全部見た。 ・・・見たけど、そうあっさりとその場を離れることもできず、 しばらくぼんやりと過ごした後で、興隆寺でもう一つ楽しみにしてた場所へ 向かうことにした。 妙見社と現在の興隆寺の間の道路は、ずっと山の方へ続いてる。             かつて大内氏の庇護を受けていた頃は、氷上山すべてが境内だった。 入り口にある法界門には政弘が後土御門天皇からゲットした・・・ いえ、下賜された「氷上山」の勅額が掲げられ、法界門から1キロほども続く道の両脇には、 100あまりの堂宇が立ち並び、500人もの僧侶が日々のおつとめに 励んでいたという。 そして、これから向かうのは、その氷上山の中でも最も神聖とされ、 大内家当主と「亀童丸」の名を受け継いだ跡継ぎのみが立入を許された場所、上宮。 上宮(じょうぐう)については、大体上のように説明されるけど、 実は亀童丸(きどうまる)の名前の歴史は新しく、 大内家の系図を見ると、当主、あるいは当主たるべき嫡子の幼名には 「孫太郎」というのが多い。 ただ、以前書いたように、大内家でも家督が変わるたびに 血縁間での争いが繰り広げられたから、歴代当主みんなが「孫太郎」だった訳じゃない。 例えば、盛見なんかは「六郎」。 その名の通り6男だからね、普通だったら家督を継ぐ立場じゃなかった。 そーゆー当主は、盛見の他にもいる。 そして「亀童丸」の名前が現れるのは、政弘の時。 政弘のパパは、教弘。 この2人の名前は、築山館とか大内文化のところで何度も出てきましたが、 大内家の歴史を妊娠に例えれば、教弘・政弘時代は安定期に入った頃にあたる(笑)。 経済・文化のみならず、内政にも力を入れ始めた頃で、 それはすなわち当主の権威・権限の強化を意味する。 血族間での争いの歴史を持つ大内家では、「亀童丸」の幼名の新設により、 誰が跡継ぎなのかを明確にし、これまで繰り返し起こってきた跡継ぎ争いを 未然に防ごうとしたのではないかという推測がなされている。 こういった訳なので、「亀童丸」の名を持つ当主は政弘・義興・義隆の3人のみ。 このうち、義興さんと義隆は元服前の「亀童丸」の時代に 氷上山上宮へ参拝した記録が残っている。 政弘も11歳の時にパパと一緒に参詣してるけど、 この時「亀童丸」だったのかはちょっとわからない。 「いや~、世が世なら、とても私なんかが 入れる場所じゃないのにな~。 ホントに入っちゃっていいのかな~。 でも、今の時代に生まれて良かったな~。」 とか思いながら、小雨の中歩き出すと、看板が出てた。          この中でいっちばん遠いじゃん・・・ しかも、アップダウン付きの550mだからな・・・ にほんブログ村

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