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戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年09月12日
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カテゴリ:旅日記(近畿)
今日は思いがけず懐かしい人の顔を見て、嬉しいひと時を過ごしました。
頑張ってる人を見ると、自分も頑張らなきゃって思います。
何を頑張るって、もちろんわたくしの本業(←ブログ)を・・・泣き笑い



え~、前回は道鏡を擁護してたらページがまたがっちゃいました(笑)。
今回は最澄の生まれから見ていきましょう。


前回の『ご一代記』では最澄が生まれる際に蓮華が降ったとあるけど、
まっ、そこはフツーに考えれば脚色だよな。
で、「後漢の孝献帝の子孫」てのも最澄を持ち上げるための脚色かと思いきや、
どうもそういう訳でもないらしい。

最澄が生まれたとされる場所は、滋賀側の叡山のふもとの坂本にある。
が、最澄の出身の三津首(みつのおびと)氏は坂本より南東、
琵琶湖の南岸の古市(ふるち)郷に住んでいたらしい。

   最澄故地


わたくしの愛らしい手描きの図も久しぶりだな(笑)。
かなり大ざっぱなのはご容赦ください。

地名からすると、古市郷は上の図で紫のあたりにあったと思われます。
瀬田の唐橋周辺てカンジですかね。

神亀元年(724)~天平14年(742)のうちの9年分の
古市郷の戸籍のようなものが正倉院文書にあるらしく、
その中に三津首氏が含まれていることから、
その頃三津首氏が古市郷に住んでいたことがわかるようなんだな。

で、古市郷には他に大友姓の諸氏族やら色んな氏族が住んでいたらしいんだけど、
たとえば大友村主(すぐり)氏といえば三井寺を建立したといわれる氏族だし、
丈安史(はつかべのやすのふひと)氏は地名のゆかりから
野洲(やす)の出自と思われるなど、周辺からいろんな氏族が移り住んでいたらしい。

その中には渡来系の氏族もあり、そうでない氏族もいた。
渡来系の方では大友姓の諸氏族と錦部(にしごり)氏が
「後漢の孝献帝の子孫」を称しているらしいので、
三津首氏が「後漢の孝献帝の子孫」を名乗ったこともあながちウソでもないのかもしれない。


三津首氏の「三津」の由来は、氏族の故地である「今津・戸津・志津」によるものとされる。
戸津の名に覚えのある方もおられるかもしれませんが、
「戸津説法」の戸津です。
上の図では、東南寺のあたりね。

以前の大津訪問(未公開)では、わたくしは東南寺から坂本まで歩きましたので、
その程度の距離です。
わたくしが以前歩いたあたりが、三津首氏のテリトリーと言えるでしょう。


『あなたの知らない最澄と天台宗』(洋泉社)の中で著者の山折哲雄氏は

 【後漢滅亡時に戦乱を逃れて渡来し、応神天皇の代に滋賀郡の地を賜り、
  三津氏を名乗った。】

としておられる。
後漢のラストは220年とあるから、その伝承が正しいとすれば
来日してから500年ぐらい経った頃に最澄が生まれたことになる。

渡来系帰化人ていうと半島からの移住者が多いようなイメージがあったけど、
最澄さんは中国人系か・・・
同書では

 【「首」は古代の姓(かばね)の一つで、その土地を管理する役職をいう。
  今でいう町長ぐらいの役職だといわれる。】

とあるけど、最澄当時の三津氏の戸主の位階は正八位下だった。

 【正八位下の有位者は、中央にあっては下級官人であるとはいえ、地方においては
  郡司クラスの有力者であった。】
  (『若き日の最澄とその時代』より)

まだこの頃の都は奈良なので、古市郷は「地方」です。
ので、町長さんよりはもう少し名士だったと思ってもいいかもしれない。
そういうおうちに、最澄さんは生まれました。

父は百枝(ももえ)。
母は藤子(とうし)。
藤子は応神天皇の9代の孫で、かつ藤原房前(ふささき:不比等の子で、藤原四兄弟の次男)
のひ孫という説もあるが、真偽は定かではないらしく、多少差し引いて考える必要も
あるようです。

最澄が15歳の時の戸籍によると、その時点で父の百枝は三津首氏の戸主ではなかった。
戸主には「三津首浄足」(きよたり)とあって、これがジイちゃんなのか
おじさんなのかまではわからないけど、ともかく、百枝夫妻にはなかなか子ができなかった。

最澄の伝記によると、百枝はまず私宅を寺にして修行して功徳を授かろうとしたものの、
あいにく子はできなかった。
そこで叡山に登って草庵を建て、7日間の参籠をしたところ、
4日目に霊夢を見て見事子を授かったという。

こうして生まれた待望の男の子は広野(ひろの)と名付けられた。
のちの最澄さんの誕生です。

個人的には、最澄より広野の名前の方が好きなんだよな・・・
だから愛称の「ひろのん」で記事を進めたいところだけど、

「ひろよん(大内弘世)とかひろのんとか、
似たような愛称付けるんじゃねえ!」


とかって一部からクレームも付きそうなので泣き笑い
とりあえず出家するまでは「広野」としておきます。


『ご一代記』の2ページめのタイトルは「神童広野さま」とあり、
著名な人にありがちな聡明な少年だったとされます。
それから、【あらかた陰陽・医術、そして土木・書算などの技術も磨きあげて】
(『若き日の最澄とその時代』より)いたという話もあるようです。

百枝の方も、人柄はいいわ仏教や儒教の経典を読むわ仏道の修行に励むわと
最澄の伝記の中ではかなり持ち上げられてるようですが、
百枝父子の伝承をいくぶん差し引いたとしても、家長の浄足の位階を考えると
裕福な識字層に属してはいたので、そのような事実もあったかもしれないと
佐伯氏は語る。

神童の誕生で多少ほんわかした雰囲気になりましたが、
ひろのん・・・いへ、広野の幼少の頃の詳しいことはわかってないらしく、
再びキナ臭い世間の流れに戻ります。

この年に道鏡が法王になっているので、
中央では女帝&道鏡のコンビとフジワラムシの対立が深まっていく時期ですね。
「叡山攻め(12)」あたりも参照)



●宝亀元年(770)

8月4日、称徳天皇崩御。同日、白壁王が皇太子となる。
8月23日、坂上苅田麻呂が道鏡の陰謀を打ち砕いた功により正四位へ昇進。
9月6日、和気清麻呂とその姉・広虫を呼び戻す。
9月7日、吉備真備が辞職願いを出す。

9月23日、一年間の服喪を終わらせる。
10月、山林読経禁止令解除。
10日1日、白壁王即位。元号を宝亀に改める。大赦、叙勲が行われ藤原永手が正一位へ昇進。



この年から、新しい時代の幕開けです。
といっても、まだ助走期間のようなものだけど。

亡くなった称徳天皇に対しては7日ごとにあちこちの寺で読経をさせて
法要を営んでたようだけど、9月22日が49日。
もともと一年間の服喪のはずだったのが、49日を終えた翌日に打ち切られてしまった。

それ以外にも、称徳天皇と道鏡時代の政策をくつがえし、
和気姉弟は赦され、前回紹介した山林へのおこもり禁止令も解除、
前政権の打倒や光仁天皇の即位に尽力した面々は褒賞を与えられた。

吉備真備は元々別の親王を推していたとされ、
それを永手が出し抜いて白壁王を立ててしまったので、
そういう政界に長くとどまることは危険でもあり早々に身を引いたのだろうと
井沢元彦氏は語る。

天武天皇以降、皇位はずっと天武系が独占してきたが、
光仁天皇は天武の血は入っておらず、天智天皇の孫。
ただし、皇后の井上内親王は天武系。

孝謙および称徳天皇の代には内乱や後継者問題で多くの皇族が処罰されたり、
また道鏡即位への道筋を作るためか邪魔者となる皇族を排除した動きがみられる。

 【(光仁:ジジイ註)天皇はこうしたことから思いがけない災難にあうことを用心して、
  或いは酒をほしいままに飲んでは行方をくらまし、それによってたびたび害を免れた。】
  (『続日本紀』より)


    天平後半系図-2



これは天平の歴バナで使った系図ですが、
井上内親王は聖武天皇と県犬養広刀自の間に生まれた子で、安積親王の姉にあたる。
しかも、聖武天皇の第1皇女。

三千代と同じ県犬養(あがたいぬかい)氏の娘とはいえ、
三千代は不比等に再嫁したので、藤原氏という強大なバックを持つ異母妹の阿倍内親王が
立太子し、井上内親王は幼くして伊勢の斎王に立てられた。

27歳の時に斎王の任を解かれて帰京。
その後、飲んだくれの白壁王に嫁ぐ。
彼には複数の妻や子もいた。

どこからこの結婚話が持ち上がったのかはわからないけど、
ろくでなしを装う白壁王との結婚は、称徳天皇から危険視されることを免れる
いい隠れ蓑になった可能性はある。
して、37歳の時に初産で皇女を、ついで45歳の時に皇子を産む。

この話は一旦置いておいて、前回『続日本紀』から紹介した
山林読経禁止令に関する嘆願の続きを紹介します。

 【俗人の巣父(そうほ)や許由(きょゆう。中国古代の伝説的人物)でさえ、なお
  山林に隠遁することを尚(たっと)んでいます。ましてや出家した僧侶で山林に
  侘び住まいする者がいなくてよいものでしょうか。伏してお願い致します。山林に
  隠遁した僧侶がそのまま長く修行できるよう許可してください。】
  (宇治谷孟氏/訳)

結局、これは許可された。
ただし、誰でも彼でも好きに山に入って修行できた訳ではなく、
お役所に届け出て許可された者に限られていたという。

僧尼令では、僧尼が山林に入る際は居場所を届け出て、
勝手に届出以外の別の場所に行ってはならないと規定されている。
ので、禁令が解除されてもあくまで僧尼令の範囲内だとも言われるんだけど、
実のところ僧尼令がいつまで、どの程度実効性を持っていたのか
はっきりしたことはわかっていないらしい。
実際には、在家の信者や私度僧なんかは結構山に入ってたらしいんだよね。

正式な僧侶に限定せず、末端までも含めた仏教界全体では
広野が生まれる前から山籠りが人気だったことは押さえておく必要があると思います。


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最終更新日  2014年11月02日 20時42分47秒


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