2012/11/07(水)20:49
三原城(10) 本丸中門跡~西築出
さて、辛抱強く歴史の長話にお付き合いいただいた皆様、
お疲れ様でした(笑)。
再び、遺構の紹介に戻ります。
え~と、天守台から本丸へ来たから、中門へ行こうかな(場所はこちら)。
クルマが邪魔だけど、なかなかどいてくれなかったので・・・
ここには解説もありましたが、か~な~り一般的な説明だったので、
割愛します(すいません)。
けど、ここにあった三原城の絵図はたぶん
「備後國三原城繪圖」を元にしたもので、
城内の位置を説明するのに使い勝手がいいので、
本丸のところでも使ったし、ここからの説明にも使わせていただきます。
で、本丸中門はかつては城内のこの場所にあったもの(★の部分)。
二の丸は、本丸の南と東を取り巻いてるけど、
中門を出て堀を渡ったところにある馬出のような
小さな区画も、二の丸の一部。
堀は一部復元だそうです。
ただ、この堀をずっと北に行くと、
って天守台西側の堀へと本来は続くものなんだけど、
ご覧の通り堀幅が全然違う。
一部っていうより、ほぼ復元だろうと思うけど。
手前の石垣も、最近積まれたものっぽいしね。
そして、現代ではこんな風に鳥さんたちが憩ったりもします。
この時、暑かったからね
北寄りの石垣は、遺構とみていいのかな。
このあたりの石垣は風格がある。
中門跡碑のすぐ南には、「臨海一番櫓跡」がある。
この辺の石垣は大変フレッシュな顔ぶれでした(笑)。
中門・臨海一番櫓跡から西へ向かうと、西築出の酉門跡碑があります。
(場所はこちら)
古図でいうと、この辺。
中門を出て、出島・・・というか馬出になってる二の丸の小さな区画に入り、
西ノ門を抜けて西築出に入りました。
この近くにちょっと見たいものがあったので、
西築出を歩いてみましょう。
酉門碑からすぐ南の小道が「おさくじ通り」。
ほらね↓。
こーゆー地名は、是非とも残してほしいよな。
この先が、港町公園。
「備後國三原城繪圖」にはちょうどこの公園の辺りに役所が描かれてるから、
これが作事奉行所とかだったのかもしれない。
酉門のすぐ近くには材木置場も描かれてるし。
このまま道なりに進んで、この道を南に入ります(場所はこちら)。
これが「西浜がんぎ通り」。
ここは、古図でいうとたぶん矢印の石垣に沿った道だと思う。
西築出を出ちゃいましたね(笑)。
「備後國三原城繪圖」にはさすがに雁木までは描かれてないけど、
この通りの名前からして、おそらく雁木があったんでしょう。
この通りには、古い家がいくつかある。
その間の道は、相変わらず細い道(笑)。
(三原名物の細道は、旅日記「三原編」の方をご覧ください)
で、見たかったのはこれ。
【敷石記念碑】
これのことは、「城下町みはら散策マップ」で知ったんだけど、
それには【”もやい柱”風記念碑。このあたりは海だった証だ】とある。
ただ、記念碑の由来についてはわからないんだけど(笑)。
けど、ここにはこんな絵があった。
西築出付近の埋め立ての経緯を色別に示した、西浜変遷図。
グリーン・・・明治中期埋立
ピンク・・・・・明治末期~大正埋立
オレンジ・・・昭和9年以降埋立
水色・・・・・・現水路
とある。
ピンクに囲まれた白い部分が、元の西築出。
現在の三原港の西側がごっそり埋立地だってのが、よくわかる。
おお~、これはいい図だぞ。
やっぱりここに来て良かったな
そして、この看板の柱には
アハハハ・・・
西之宮壱里塚と同じく、没後400年を経て、
又四郎様ってばここでも城下整備に一役買ってるのか。
おつとめ、ご苦労さんにござんす
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