戦国ジジイ・りりのブログ

2014/07/29(火)21:01

上野第二編(39) 寛永寺49/上野東照宮~阿部重次の水盤・エリア3

上野と寛永寺(155)

エリア8の灯籠群の手前にあるのがこれ↓。                【明治七年甲戌年六月   駒込肴町 願主 石屋八右衛門   狛犬の石工、酒井八右衛門寄進の鈴。井亀泉(せいきせん)の名で江戸三代石匠と   呼ばれ、江戸時代から昭和初期まで四代に渡り、多くの石造物を残した。   鳥居や狛犬などには酒井八右衛門、墓碑や顕彰碑には井亀泉の銘を刻んだ。鈴の来歴は   不明であるが、昭和30年頃珍品であるため人目のつくところにと、この水屋に   つけられた。】   (現地解説文より。漢数字は戦国ジジイが変換) 石匠奉納の鈴がなぜ珍品なのかよくわかりませぬが、 鈴よりその下にあるこっちの方が大事↓。         【従四位下阿部對馬守藤原朝臣重次   奉献 石御手水鉢   慶安4年孟春吉日】 はい、前々回、水舎門にリフォームされた重次さんの元・御水屋を紹介してますが、 あれとこれがセットだったんでしょうね。 ただ、これ、これまでの灯籠と日付が違うなあ。 ここまではすべて慶安4年4月17日付けだったのに対し、 日付は書いてないものの、「孟春」は陰暦正月の別名。 つまり慶安4年1月の奉納。 それにしても、なんでこんな風にしちゃったんだろう? こんな訳のわからないデカい鈴なんかぶら下げたら、 カラの重次さんの水盤なんかに目が行かないじゃんね~。 歴史のある重次さんの水盤には、当然重次さんの上屋の方がふさわしい。 実物を見た方にはわかると思うけど、酒井忠世の大鳥居をくぐった後に現れる 水舎門は、ぶっちゃけちゃっちい。 そりゃそうさ、もともと門として造られたものじゃないんだもん。 とりあえず門を設置して見栄えを取り繕ったつもりかもしれないけど、 そんなセコいことするよりもきちんと重次セットで手水舎として置いた方が 人目を引くに違いない。 それに、重次さんの御水舎はもっとふさわしい場所に置かれていたのだ。 かつての東照宮の境内は今とだいぶ違っていて、手持ちの資料から 少し紹介しようかと思ってるんだけど、それは歴バナの後にしようかな。 ええ、もうひとつ歴バナが控えてるんですよ(笑)。 でも、もうちょっとだけ境内案内を進めますね。 で、エリア8の向かいにあるエリア3。               第二編では、大鳥居のすぐ先に灯籠群が現れたので つい勢いでエリア1の写真を撮り始めましたが、 この時は実はお目当ての灯籠はただ1つでした。 一つ一つの銘を見ていくのは大変なので、古そうな銅灯籠を求めて エリア3とエリア8の灯籠の間を歩き回っても、お目当ては見つからない・・・ 境内を一通り見た後で、疲れてもう諦めようかとも思ったけど、 最後に根性入れてまた探し始めてから エリア3の中にようやっとそれを見つけました↓。        なんとまあ、エリア3の一番手前にそれはありました。 いや、まさかこんなに地味なものだったなんて(笑)。 この灯籠がどなたのかと言いますと、         【東叡山 東照大権現 御寶前   寛永五戌辰年   伊賀少将藤原朝臣高虎】 はい、ふたたび藤堂高虎・・・通称・与右衛門(よえもん)の登場です。 「上野第二編(2)」の寒松院のところで、「彼についてはホンマもんのゆかりの地で 書くことにします」と書きましたが、ようやくそこへ辿り着いたという訳です。 それにしても、ホントに地味(笑)。 他の灯籠の銘のアップの写真を載せてないので皆様には比較はできないかもしれませんが、 こんな竹のへらでつつ~っと書いたようなラインの銘は与右衛門のだけです。 しかも、あんまり綺麗な字じゃないし 他の意匠にしても、根本中堂や両大師のところの派手なデザインを見た方には わかるかもしれませんが、例えば隣にある黒田忠之のと細部を比較してみましょうか。 これが与右衛門の火袋(ひぶくろ。火を入れる部分)↓。        根本中堂などの銅灯籠では、ここには天人たちがデカデカと優雅に舞う姿がありましたが 与右衛門のは               黒田の方は               台座の部分は、例えば日光輪王寺の大護摩堂前の灯籠なんかは 実に見事な獅子の彫刻がありましたが、黒田のは        対して与右衛門のは        とにかく、飾りがちっこくてシンプルで可愛らしい。 誤解のないよう言っておきますが、別に与右衛門のがチンケだとか 工費をケチったんだろうとか言ってるんじゃないですよ。 ただ、徳川家関連の銅灯籠は石燈籠に比べてデコラティブで、 単品でなんとなく見てると気が付かないけど、 結構時代の流れというか、色々変遷や流行りがあるんだな~と知って面白いと思っただけです。 それと、与右衛門の灯籠にはもう一つ特徴があります。 胴の下部のヒラヒラのスカートのすぐ下の台座には、黒田の灯籠は        こういう華麗な装飾が施されてるけど、与右衛門の灯籠にはこれに該当する部材がない。 離れて両者の台座部分の造りを比較すると、こうなってます↓。        左が与右衛門、右が黒田。 造りが違ってるのがわかりますか? 上野東照宮のホームページには「形も南円堂形と特徴的です」とある。 南円堂形の定義がよくわからないんだけど、奈良・興福寺のホームページに載っている 国宝・金銅燈籠が南円堂形と呼ばれたものらしく、確かに掲載されている写真を見ると 与右衛門のとよく似ている。 とりあえず、台座部分は他が角形なのに対し、与右衛門のは円形なので 決定的に違う。 ちなみに、比較に使った黒田の灯籠の全体はこれです↓。         【筑前太守従四位下侍従源朝臣忠之 敬白】 今年の大河の主役・岡田君・・・じゃなくてかんべ~の子・長政の長男。 ゆえにかんべ~の孫になります。 この灯籠の日付は撮ってないけど、たぶん他と同じ慶安4年(1651)だろうから、 長政はすでに死んでるんだな(1623年長政没)。 もし隆景ちゃんがもう少し長生きしていたら、 筑前太守として奉納された灯籠の銘には小早川の名前があったかもしれない・・・ と、それはともかく、境内にある解説板から。  【銅燈籠   東照宮社殿唐門前と参道に、50基の銅燈籠が並んでいる。燈籠は神事・法会を執行   するときの浄火を目的とするもの。照明用具ではない。浄火は神事・仏事に使う清めた火。   燈籠は上部から、宝珠・笠・火袋・中台・竿・基壇で構成されている。   火袋は、八角・六角・四角などの形式に分かれ、各面には火口・円窓という窓を設けて   いる。火袋下部の長い部分を竿といい、ここに銘文を刻むことが多い。これら銅燈籠は、   諸国の大名が東照大権現霊前に奉納したもの。竿の部分には、寄進した大名の姓名と   官職名・奉納年月日が刻字されている。   それによると、伊勢国(現三重県)津藩主藤堂高虎奉献の寛永5年(1628)銘1基を   はじめ、慶安4年(1651)正月17日奉献2基、同年4月17日奉献45基、   同5年孟夏17日奉献2基となっている。慶安4年4月17日は東照宮社殿落慶の日。   その日の奉献数が最も多い。これら銅燈籠は、東照宮社殿とともに一括して、国の   重要文化財に指定されている。】   (漢数字は戦国ジジイが変換) ということで、日付の由来が書かれていますが、 つまり上野東照宮境内の灯籠の中では与右衛門のが最も古いという訳です。 だから、地味な意匠も古いがゆえということになるのかもしれない。 なんで与右衛門の灯籠が社殿落慶以前の日付なのか、 それも後ほどの歴バナの中で紹介します。 ↓ぽちっとね にほんブログ村

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